白洲次郎という人(6)

 大磯の吉田邸が全焼したらしいですね。たまたま同じ日に、行き所ない老人が狭い建物に文字通り閉じこめられていた施設も火事になり、大勢の焼死者が出ましたが、吉田邸の方は、改めてニュース写真などにも出たように、風光明媚な場所に、とにかく広大な敷地をもつ大邸宅だったようです。
 吉田茂といっても、さすがに昨今では知らない視聴者も少なくないので、今回の火事のニュースでは、改めて、どういう人だったか、一言紹介されていました。例えば曰く、「戦争直後、5度に亘って内閣を組織し、「バカヤロー解散」など放言暴言を繰り返しながらも、戦後復興の方向を定め、保守政治の強固な権力基盤を作り上げた「ワンマン宰相」」。
 1946年に第一次の組閣をした吉田は、54年の第五次内閣解散で首相職から退きますが、その後も彼は、大磯邸にあって、敗戦と共に消えた筈の「元老」の如き存在として生き続けます。
 *W=「「吉田学校」の優等生だった池田勇人佐藤栄作両元首相らが現職首相として足しげく吉田邸を訪れ、助言を得た姿は「大磯詣で」と言われた。
 宮中園遊会天皇から「大磯は暖かいだろうね」といわれて、「はい、暖こうございますが、私の懐は寒うございます」と答えたということですが、皇族や外国首脳をも招くことができた超豪邸の主だからいえる冗談です。
 ところで、吉田の冗談は、しばしば「口の悪さ」となって表れ、気にくわなければ「バカヤロー」と罵倒したりもしました。
 単純な図式で恐縮ですが、富裕な家に生まれた子は、それ故に縛られて育てられるかそれ故に自由奔放に育てられるかでしょうし、本人の方でも、それ故に自らの存在を罪と感じつつ育つかそれ故に自らを当然の特権的存在と感じつつ育つかでしょう。吉田茂という人は、家庭的不幸と引き替えに、子供の頃に莫大な財産を相続しますが、基本的に貧乏な一般人を見下す視線をもっていたようです。彼にとっては、一般人とは、いうならば「狭い家に肩を寄せ合って暮らす貧しくだがそれ故に貧相な幸せを感じることもできる人々」であり、自分に無縁な一般人に対するアンビバレンツが、そうした見下す視線を生んだのでしょうか。だが、そのような見下しによる自己確認のためには、その富が、成金的な、つまり庶民出自の身に付かない富であってはなりません。こうして、実際の血統がどうであったかは別にして、富の自覚に血筋の自覚が伴うことで、富裕が当然の「身に付いた」ものとして意識される、いおやむしろ、こだわる必要のないものとして無意識化されましょう。あるいはそこに、「臣茂」と署名した吉田の天皇崇敬や藩屏意識もまた関係しているのかもしれません。
 そしてもうひとつ、平凡な庶民を見下す意識は、東大を出て外交官としてのキャリアを積む中で、庶民にはどうせ分からぬ国際世界で腕を振るう、国家エリートの自覚となってゆきます。石屋に生まれた庶民出身の外務省ライバル広田弘毅は、戦中に外相となり首相となって絞首刑になりますが、葉巻を愛好する吉田は生き残り、戦後を引き受けます。
 バカヤローという口癖は、まわりの者どもを見下している意識から自然に生まれる口の悪さです。晩年、彼は、「健康の秘訣は何ですか」といった類の質問に、よく、「強いていうなら、人を食っていることかな」といった類の答えをしたそうですが、「人を食った」発言とは、「どうせ君らには分からんだろう」という意識の表れでしょう。
 吉田のことだけになりました。白洲に戻りましょう。(続)