空気に合わせる空気

 (承前)歴史を棚上げしたハグや、歴史など知らない例えばプチ整形などは、友人ができる妨げにはならないが、厄介なのは例えば史観(フェイク史観)などを持った「教養」ある連中で・・などと書い継いでみたが、つまらない話であるだけでなく、「空気」がどこかへ行ってしまった。
 ハグをしたりK-POPを聴いたりするのも、もちろん文化であり「教養」であるが、問題は、そういった開放的な文化ではなく、閉鎖的に自己完結して行く「教養」が生み出す「空気」である。
 「この国には二つの違った「事実」がある」(高橋源一郎)。「この国」だけのことではないが、それはいま問題にしないことにして、ともかく異なった理論と事実が、異なった世界観(教養、参照系)を作り、異なった「空気」を生み出す。
 田原氏のように、反韓政策支持率が「驚くべき」高率だったことを、現政権下で拡がるウヨ史観の「空気」と見る人々は少なくないが、逆に、戦後史学や戦後教育界を席捲してきた「自虐史観」の「空気」に苛立つ人々も少なくない。しかし、同じ空気でも、揚子江気団と小笠原気団などとは違って、「空気」の平和共存は難しい。
 一強政治に都合のよい「事実」が、一強「理論」に統合され、強大な一強「空気」の膨張が進んで、例えば田原総一朗氏を驚かす。
 日本では、「互いの顔を見て判断し、多数に自分を合わせてゆくという「空気」の力がますます拡大して」ゆきつつある、と堤未果氏はいう。一強政治に都合よく作られた支配的な「空気」。その「空気」に自分を合わせてゆくという「空気」。(続く)