教養について

 (承前)知識は単独であるのではない。例えば、「病院代がタダ」という知識(またはフェイク知識)を持った者は、「不正受給」といった専門知、「パチンコ屋で見た」といった体験知など、関連する知識群(またはフェイク知識群)を、進んで選択的に<学んで>ゆくだろう。さらにそこに、それらに親和的な、<社会的弱者>についての多くの差別知が、引き寄せれ、まとわりついてゆく。
 大塚英志氏を借りていえば、<学ぶ>ことで選択的に集積される能動的な知識群は、「教養」であり、事態に対処する際の「参照系」である。良くも悪しくも、共同性が(幻想であれフェイクであれフィクションであれ)教養あるいは観念系あるいは物語といったものに憑くことがなくなり、ただフラットなプラットフォームだけが、「民主的、共同的」な顔をして(そう見えるものとして)、空気のように横たわっている。
 こうして、「父のPCはネトウヨサイトだらけ」(鈴木大介)ということも起こりうる。名門大学を出て高度成長期の企業戦士だった父君の知的好奇心は、退職後、「がむしゃらに働けば報われた日本社会」への喪失感を「奪われた」という共通言語に転換する、ネトウヨ排外主義の知識群に引き寄せられていったようである。

 高学歴で<勉強家>のネトウヨ「知識人」あるいは「教養人」。親玉が、テレビや雑誌で、差別や弱者叩きの言説をまき散らしている。(続く)