弱者を叩いて効果を実感

 先日の新聞で、こんな記事を読んだ。
 ちょっと古い話だが、有名なテレビドラマで、主人公と相棒とが、街頭で非正規雇用者のデモに遭遇するのだが、それが実にヒステリックで迷惑な連中で、たまらず相棒が怒鳴りつける、というシーンがあったらしい。
 脚本は太田愛氏ということで、もちろん太田氏がそんなシーンを入れるわけもない。氏はブログで、それでも静かに、以下のように書いている(→相棒20元日SPについて(視聴を終えた方々へ) | 脚本家/小説家・太田愛のブログ)。 

 脚本家の立場から申し上げておきたいことがございます。
 右京さんと亘さんが、鉄道会社の子会社であるデイリーハピネス本社で、プラカードを掲げた人々に取り囲まれるというシーンは脚本では存在しませんでした。
 自分たちと次の世代の非正規雇用者のために、なんとか、か細いながらも声をあげようとしている人々がおり、それを支えようとしている人々がいます。そのような現実を数々のルポルタージュを読み、当事者の方々のお話を伺いながら執筆しましたので、訴訟を起こした当事者である非正規の店舗のおばさんたちが、あのようにいきり立ったヒステリックな人々として描かれるとは思ってもいませんでした。同時に、今、苦しい立場で闘っておられる方々を傷つけたのではないかと思うと、とても申し訳なく思います。どのような場においても、社会の中で声を上げていく人々に冷笑や揶揄の目が向けられないようにと願います。

 変更したのがディレクターなのか監督なのか知らないが、こんな重大なシーン変更を、脚本家の了解なしに行うことができる、というドラマの作成システムに、今更ながら驚く。同じ作品のスタッフとして日頃付き合いもあり、だから知っていただろう脚本家の「思い」に反してまで、局上層部あるいはスポンサー企業の意向を忖度することを優先させたのだろう。
 しかし、と、ここからが新聞の特集記事(「沈黙の時代」とかいうタイトルで担当記者の署名もあったような気がするのだが、忘れてしまって申し訳ない)の話になるのだが、問題は、局上層部やスポンサーの関与や忖度があったのかどうか、といったことではない。それ以前に、いま、一般の視聴者、だけでなく多くの人々が、例えばデモを、「ヒステリックで迷惑」なものと見ている、ということがある。今の時代、世の中は何も変わらない。そう思っている人が多い。声を上げても何も変わらない。デモなどでは何も変えられない。となれば、それが分かっていて声高に叫ぶのは、ヒステリックで自己満足ではた迷惑な行動だ、ということになる。
 しかし、効果がないのに声を上げるのは迷惑でしかないということは、「効果ある声」を排除しない。早い話が、「デモはヒステリックで迷惑だ」という<声>には、結構効果があったりするわけだ。
 野党たるものが「批判より提言」という時代、強者や権力を批判しても何も変わらず効果はないが、「なんとか、か細いながらも声をあげようとしている人々」を叩けば、自分の<声>の「効果」を実感することができる。