空気とお日様

 (承前)といっても途中から話がすっかり逸れてしまった。道の始まりを忘れてしまったので、戻ることもできず、進むほかない。といっても何処へ? 
 互いに相いれない空気があれば、当然空気への反抗も真逆となるが、「事実」さえもが共通の参照基盤となりえないなら、対話、問答は成立しない。
 そうなると「問答無用」の力ずくで強権が認める空気が、一強「空気」となり、巨大な高気圧が全国を覆い、弱者庶民には慈雨、薫風も惜しむ、どうしようもない「日本晴れ」の日々が続くことになる。
 高橋氏の発言などを引用した『支配の構造-国家とメディア~』(SB新書)でも議論されているように、一強空気の下で、「事実」を含む共通の了解場で話しあえる言葉が消え、極端より中庸、変格より安定、排除より包摂を選ぶリベラル保守層が消えている。
 ところで、先にも少し触れたが、その本で堤未香氏はこういうことをいっている。
 「かつては、親が子によく「お天道様が見ているよ」と言い方をしましたよね。アメリカなら「神様が見ているよ」でしょうか。ところが、「株主資本主義が拡がり」、そういう「ある種普遍的なモラル」が継承されにくくなる。それでも、アメリカではまだ、キリスト教的な「倫理基準を継承しようとしてきた」が、「日本にはそれもなかった。結果として」「互いの顔を見て判断し、多数に自分を合わせてゆくという「空気」の力がますます拡大してしまったのでしょう」、と。
 またまた道を曲がってしまうが、アメリカ(プロテスタント)の「神様が見てる」は本来個人の内的ドラマであるのに対して、こちらのお天道様にはそんな力はなく、「親が子に「お天道さまが見てる」という」という、社会的(親子)ドラマとしてしか成立しない。「そいがこつ、お天道様に許されっと思っちょっとか」などと、お天道様がいうわけではなく、親方とか大旦那とかがいったり、「お前がお天道さまに顔向けできないことをすると、私がご先祖様に申し開きができません」と、大伯母とか姑とかがいったりする。もちろんお天道さまは村八分や家父長DVにも使われるのだが、それも含めて、お天道様の消滅あるいは希薄化とは、ゲマインシャフト的な絆が「てんでんこ」に散逸する現状に対応している。(続く)