もうひとつ続き

 資本主義によってもたらされた「近代」は、「不平等」や「差別」を批判する。例えば世界人権宣言第2条には、多くの項目がリストアップされている。「全ての人は、人種、膚の色、性、言語、宗教、政治意見、国籍、社会的出身、財産、その他によって差別されない」。「財産」という語も一番最後にあるが、付け足しである。「財産」のない者が飛行機のファーストクラスの席に座ることを拒否されても「差別」だとは誰もいわない。それが近代である。しかし、黒人の少女がバスの特定座席に座ることを拒否されると、全米で抗議デモが起こった。それが近代である。「経済的」関係である限り「等しくない」ことは「不平等」でも「差別」でもなくむしろ称賛されるが、それ以外(経済外的)に「等しくない」扱いは、差別として、あるいは差別にに繋がるものとして「批判」される。
 「性」差別に関する「批判」思想はフェミニズムといわれる。かなりの理論的歴史をもっているフェミニズムをまとめて単純乱暴に引き合いに出すと反論されるだろうが、「近代批判」も「反近代」も「ポスト近代」も、近代の産物だという意味である。
 秘書アシスタントその他特定個人を長期的に専属サポートする職種はいくつもあるし、家事代行業者も保育士も調理師も性産業従事者も立派な職業人と見なされるが、「経済的」雇用ではなく女性に割り当てられた、または引き受けられた専業主婦という仕事を、フェミニズムは「批判」する。それでも「専業主夫」という入れ替えは可能だから「選択」なのだと言える余地がある。しかし妊娠出産は、入れ替え不可能に女性に割り当てられ、または引き受けられる他ない仕事である。もちろん非難したりするわけはないが、割り当てられた性分業に、フェミニズムは、「近代」思想は、「批判」的でないわけにはゆかないだろう。もちろん強制には断固反対する。
 より大きな利潤の獲得を目指す資本主義の発展は必然的に利潤率の低下に直面する。より大量の労働者と消費者を取りこんで発展を続けようとする資本主義は「先進国」になれば人口の減少に直面する。「新しい資本主義」など(ついでに新しい社会主義なども)、今のところ何をいっているのか分からない。少子化に追い詰められた資本主義が、野菜工場のように人工培養による労働者「製造」に進んだり、アメリカのような精子通販や代理母雇用といった妊娠出産の「経済」化を世界的に進めたりするようなSF世界は、少なくともまだかなり先のことだろう。
 イーロン・マスク氏は、「人口急減は文明にとって地球温暖化よりもずっと大きなリスクだ」といっているらしい。今も地球上の人口は増えつつあるが、世界の各国が資本主義の「先進国」に向かって進んで行くなら、いずれ軒並み少子国となるだろう。マスク氏もいうように「急減」は確かに大問題だろう。しかし、地球上の人口が減少すること自体は、テスラの台数や「X」のツイートが減ってマスク氏は困るだろうが、われわれ庶民にとっては、もしかすると悪くないことかもしれない。

  長くなった上に、実にいい加減な話になってしまった。