シーンとストーリー8

 「狂者に責められる自罰の祭儀のためには、~家庭の地獄をますます悪化させ」(磯田光一)ることが必要で、そのためには祭壇に捧げる生贄が一人ならず必要だった。もし書くことがこのように書くことであったとすれば、書くことを賞賛することは、このように書くことを、つまり他者を生贄として地獄の祭壇に引き込むことをも賞賛することになるでしょう。しかし、「家庭の」地獄といえどもすでに「あいつ」も「子ども」もいるわけで、もっと進んで、「世間に責められる自罰の祭儀のために社会の地獄を悪化させる」作家がいてもおかしくないし、現にいるわけです。

 とはいえ、私はここで、書くべからざることを書くことを「世間の制約からの自由」ゆえに高評価することを、批判したり非難したりしようというのではありません。自らも周りも世間も犠牲に捧げて顧みない野心にとりつかれた人々は、凡人がとやかくいう域を越えています。
 一方ここは、もちろん凡人の下世話なお話で、こんなことをいって誠に恐縮なのですが、島尾が「すごい」のなら、ベン・ジョンソンも「すごい」といっていいのではという、たったそれだけのお話です。あ、ここへ来て、気がついたのですが、ベン・ジョンソンなんて、もはや知らない人が多いでしょうね。驚異的な記録で100メートル金メダルと思ったら、検査に引っかかり、弁明が認められずに、神聖な五輪を汚したとして金メダルを剥奪され、一方同じくひっかかりながら「知らなかった」という弁明が認められたカール・ルイスが、繰り上げ金メダルとなったのでした。

 作家なら妻を狂わせても(狂わせたがゆえに)芸術院会員になれるし、アル中やヤク中故に素晴らしいミュージシャンもザラにいますが、国際オリンピック委員会は、それらとは比べ物にならない巨額な金儲けのために、選手を生贄に捧げて、「公平」で「神聖」で「純粋」な勝ち負けだ、という幻想を維持するのです。
 まあ、そんなことは凡人の余計な話で、0.01秒のために生涯を賭けるような驚嘆すべき狂人(並の凡人ではないというだけの意味です)の方々は、止めても止まらないでしょう。ただ、全身小説家は親友島尾を非難したという芸術院会員の年金は、いくらなのか知りませんが、「自罰の祭儀」ならぬ「自慢の祭儀」というか「五輪の祭典」は、このご時世に何と3兆円ですよ。「復興五輪」というなら復興に、「克服五輪」というならコロナ対策に使ってもらいたいものです。
 ということで、テープを切ったシーンを繰り返し放映し、金メダルに至るストーリーを作り上げて、3兆円の正当化をはかるのでしょう。(急に眠くなってきたので終わります)

シーンとストーリー7

 問題は、自らの地獄場を書こうとするとき、それが思わず罪を犯して落とされた地獄場ではなく、「書くために」自ら招き寄せた地獄場である場合もあるだろうということです。永山則夫のように「書く者」であったなら殺す者にはならなかったということが明確な場合は多分稀で、はじめから書くことと殺す(という程ではなくも罪を犯す)ことの境目が判然としないことも大いにありうるでしょう。
 「ミホに日記を見られた頃の島尾は自分の「業の浅さ」に小説家としてコンプレックスを抱き、生々しい手応えのある悲劇を家庭内に求めていた」(梯、以下同じ)。こうして島尾は、地獄に至る悲劇を自ら「求めて」、わざと日記を「見せた」のだろう、ということになります。

 ただ、この夫婦の場合は、単純ではありません。「ミホにとっても、自分が狂うことは状況を打開するほとんど唯一の道だった」。狂うことで出現させた壮絶な修羅場の主役となることで、「ミホは何をしても許される生来の地位を取り戻し、島尾は家庭内にこれ以上ない小説の素材を手に入れた」。島尾の一人芝居だったのではなく、シテとワキのドラマだったというわけです。

 けれども、「家庭内」だけではありません。もうひとり、不可欠だったのが「あいつ」です。書く「ために」、島尾は前もって「あいつ」と呼ばれる女性を性愛関係に引き込んで、修羅場の重要なワキツレ役をさせたのでないか。梯氏は、その女性についても、主体的な姿(役ではなく役者としての姿)を確認しようとします。 

 さらにいうなら、子どももいます。島尾の晩年に関わった女性が、島尾から打ち明け話をされ、どうしてそんなことを私に話すのですかと聞くと、島尾は、「いずれあんたはこのことを書くだろうから」と答えたといいます。だとすれば、娘のマヤこそ、「いずれ必ず書く」という宿命を父から背負わされていた筈であり、彼女は、一切の言葉を拒否することで、その宿命を拒否して主体として生きる道を確保しようとしたのかもしれません。

 何だか、ますます怪しい道に迷い込んだようで、一体何の話からこうなったのか、どう終わればいいのか、分からなくなりました。まあ、いつものことですが、今日はこれで。(続く)

シーンとストーリー6

  ワクチンの確保もならずコロナ収束の目処が立たないまま、それでも政府もIOCも強引に五輪を開きそうです。目標なく始まったので当然ながら収束しないこの話も、とにかく強引に強制終了することにしましょう。
 といいながら、早速また回り道ですが。

 島尾ミホを、聖なる狂女という「書かれた」客体に収めるのではなく、「見ること、書くこと」に憑かれた主体として捉え直し、「愛された妻でありたい自分と、傷を傷として描く作家でありたい自分、「書かれる女」と「書く女」、その間で引き裂かれた姿」を、広い重層的な視野と深い共感をもって出来る限りの調査を重ねて描き切った梯氏の大著は、大変読み応えがありました。
 しかしここは、この重い本について、それ以上のことを書く場所ではありません。それどころか、大変軽い取り上げ方をして誠にもって恐縮なのですが。

 島尾敏夫を高く評価した例えば吉本などからは、恥辱も罪も狂態も裏切りもその他書くべからざることを余す所なく書くことで、島尾は、世間的な一切の制約から「自由」な「書くこと」の極地に立ったと称賛されます。もっとも、世間の外もまた世間であるのが世の常であって、例えば文壇的な評価を得たいという野心は強く持っていたでしょう。もちろんだから賞賛に値しないということでは全くありません。ただ、例えばしかるべき文学賞を受賞して文壇に地歩を築きたいとしう野心や功名心を、ベン・ジョンソンがオリンピックの金メダルを獲りたいという野心とは別のものだと、もしいうなら、それは文学者の高慢というべきでしょう。世の中には、けん玉に憑かれた者もいれば小説に憑かれた者もいるわけです。(続く)

シーンとストーリー5

 いつものことながら、シーンもストーリーも、どこかに行ってしまい、ただ怪しい話が続くだけですが、とにかくつなぎます。

 「それだけでは多分ありません」、と前回の終わりに書きました。
 スポーツとは「勝ち負けのある身体活動です」、と先生が子どもたちに言ったのでしたが、先生はまた付け足して、スポーツとは「女・子ども・障がい者は、男・大人・健常者に勝てないような身体活動です」、と言うかもしれません。例えば100メートルを走れば、成人男子が勝つに決まっています。
 そこで女子たるもの、そんな種目は意地でもやらずに、「それじゃ、こういう種目ではどうだ」、と女子が男子に勝つ種目を探して、五輪種目とすることを提案する。・・・といったことはならないで、記録上負けるに決まっている同じ100メートルを走って、女子の中では一番、と勝ち名乗りをあげる。

 とはいえ私は、オリンピック、もっといえばスポーツというものに根深い男・大人・健常者中心主義に、女子アスリートもまた支配されている、といいたいのではありません。まあ否定はしませんが、それだけでは多分ありません。おそらくもっと直截的な内的欲求があるのでしょう。「ひとよりも速く走りたい」という端的な欲求が。
 犬には負けるからと走るのを止める選手はいません。チータには負けても人は走る。男子に負けても女子は走る(などといったら不謹慎かもしれませんが)。0.1秒速く走るために、生活の全時間を捧げ平凡な人生を犠牲にして悔いない、世の中には、そんな人がいるわけです。男子にいるなら女子にも当然。
 で、ここでまた、ベン・ジョンソンのことが頭に浮かびます。(続く)

シーンとストーリー4

 ますます話が怪しくなります。

 「勝ち負けがあるのがスポーツ」、であるとするなら、いずれ本気になれば、とにかく勝ちたい、ということになるでしょう。で、そうなれば、強い選手あるいは強い選手やチームを育てたコーチの指導を受けたいと願うのは、(有効かどうかは別にして)自然のことといえるでしょう。ところが「強い」ということになると、女子より男子が強い。例えば42キロあまりを2時間20分ほどで走る男はめったに、いや、普通はいません。女子マラソンのランナーは実にすごい速さです。それでも、男子トップランナーはもう15分程速い。馬術とあと少しの例外は別として、男子女子同じ種目を比べれば、男子の記録が女子より上でしょうし、対戦種目なら男子が勝つでしょう。

 しかし、何故でしょうか。オリンピックの「種目」が、もともと兵士能力を競うものだからであり、男・大人・健常者が強いのは、兵士である男・大人・健常者向けの競技種目だから当然です。マラソンだって、戦争の伝令ですしね。(でも「100キロ水補給なし」だったら、先行する男子が脱水で脱落してゆき女子が勝つ、なんてことないでしょうか。ないか。)

 ということで、ますます話が怪しくなりますが、例えばです。こんな種目があったとします。「完全目隠しのポーターが、コックスと呼ばれるパートナーを背負い、その指示で、複雑な障害を避けながらコースを走ってタイムを競う」。もしもそんな種目があったとすれば、男女の規制などは一切なくても、多分、こんな実況になるのではないでしょうか。
 「いよいよブラインドダブル400メートル障害レースの決勝です。優勝候補ペアのポーターは、規定により目隠しをしていますが全盲ですので日常的に視覚以外の感覚が研ぎ澄まされています。背負われているパートナーは6才の少女で、体重が軽く、しかし障害を見分けて的確に指示を出すスキルは、予選で十分に示されています」・・・

 しかし、成人・男子・健常者ペアよりも、子ども・女子・障がい者ペアの方が多分勝つという、そんな種目を作れという声は聞いたことがありません。そうではなくて、槍を投げる砲丸を投げる水濠を飛び越えて走る弓を射る格闘する、そんな男性兵士種目と同じものを、女子もやりたい、「男子には勝てない」、でも「女子では一番になりたい」、というのがオリンピックです。

 ただし、それだけでは、多分ありません。(続く)

シーンとストーリー3

 だんだん話が怪しくなりますが。
 古代オリンピックでは、集まった人々目当てに演説する者や詩を吟じる者もいたようですが、競技は、戦車競走や武装競走や格闘技をはじめとする軍事訓練種目で、それは近代五輪も同じです。クーベルタンは、オリンピックへの女性の参加を禁止しましたが、かれによれば、スポーツとは「愛国心と軍人精神に結びつき、本質的には男性のするもの」だからでした。

 森女性差別発言から騒ぎとなって、結局その森を父と慕う橋本大臣が後を継ぎましたが、一応、20%の女性役員を40%にすることを目指すようです。結構なことですが、問題は「役員」比率だけではありません。例えば、女子競技、女子チームの「監督やコーチ」も圧倒的に男が多い、そこが問題だといった記事が出たりしています。これまた、もっともなことですね。

 しかし、その種の新聞記事だったと思うのですが、こんな箇所がありました(と書いてから探したのですが見つかりません。記憶の再現というより勝手な創作になるかもしれませんがご容赦ください)。「強い選手は、勝つためのトレーニング勝つための試合運びを知っている。女子の金メダルクラスの選手でも男子の補欠クラスに負けるだろう。勝つために強い選手を、ということで、自ずと男子が求められてきたのだろう。

シーンとストーリー2

 国民の間ではオリンピック中止という意見が80%を超えているのに、政府とIOCは、どうやら強行する気配が強くなってきました。首相は野田聖子に「権力のそばに来ないか」と誘ったそうですが、国民の大多数が反対していることでも自分が決めればできるのが「権力(パワー)」だと思っているのでしょう。一応主権者は国民であり、国家のパワーは国民のもので、首相は国民の「公僕」の筈ですが、前首相が「私が国民から選ばれたから最高権力者だ」と繰り返しても、野党議員も記者も国民も発言を問題にせず、「私は権力者だ、私のそばに来ないか」という今回のガースー発言も、スルーされました。

 ということで、私もそんなことはスルーしますが、それにしてもオリンピックって何なんですかね。あるいはスポーツって。
 子犬は庭で追っかけたり追っかけられたり、組んず解ずれつじゃれ合って遊びます。最近の小学生は、遠足で野原に行って自由時間を与えられても遊べない、などといわれたりしますが、幼児ならもう少し子犬に近いでしょう。ところが人間は、大人になると、いらぬことを思いついたりします。
 例えば小さい小学校の校庭で、1年生の子どもたちが、A組もB組も男の子も女の子も関係なく入り混じって、一個のボールを蹴り合い群がって遊んでいます。ところが先生という大人が、「はい、遊ぶのはそれ位にして、スポーツにしましょう」などという。

 「せんせい、スポーツって?」「ただ走ったりボールを蹴りあったりしてるのが遊び。勝ち負けがあるのがスポーツです」。で、A組とB組でサッカーをさせる。「敵と味方」が生まれ「勝ち負け」の意識が生まれ、負けた組は今度は勝ちたいと思い、そのためには勝手に走ったり蹴ったりせずに攻撃と守備の作戦を立てようとか主将に従わない奴は駄目だ、などということになって・・・つまり戦争ですね。
 大人は、なぜスポーツや戦争が好きなのでしょうか。脈絡のないシーンだけの時間ではなく、ストーリーのある歴史が好きだからなのでしょう。