シーンとストーリー2

 国民の間ではオリンピック中止という意見が80%を超えているのに、政府とIOCは、どうやら強行する気配が強くなってきました。首相は野田聖子に「権力のそばに来ないか」と誘ったそうですが、国民の大多数が反対していることでも自分が決めればできるのが「権力(パワー)」だと思っているのでしょう。一応主権者は国民であり、国家のパワーは国民のもので、首相は国民の「公僕」の筈ですが、前首相が「私が国民から選ばれたから最高権力者だ」と繰り返しても、野党議員も記者も国民も発言を問題にせず、「私は権力者だ、私のそばに来ないか」という今回のガースー発言も、スルーされました。

 ということで、私もそんなことはスルーしますが、それにしてもオリンピックって何なんですかね。あるいはスポーツって。
 子犬は庭で追っかけたり追っかけられたり、組んず解ずれつじゃれ合って遊びます。最近の小学生は、遠足で野原に行って自由時間を与えられても遊べない、などといわれたりしますが、幼児ならもう少し子犬に近いでしょう。ところが人間は、大人になると、いらぬことを思いついたりします。
 例えば小さい小学校の校庭で、1年生の子どもたちが、A組もB組も男の子も女の子も関係なく入り混じって、一個のボールを蹴り合い群がって遊んでいます。ところが先生という大人が、「はい、遊ぶのはそれ位にして、スポーツにしましょう」などという。

 「せんせい、スポーツって?」「ただ走ったりボールを蹴りあったりしてるのが遊び。勝ち負けがあるのがスポーツです」。で、A組とB組でサッカーをさせる。「敵と味方」が生まれ「勝ち負け」の意識が生まれ、負けた組は今度は勝ちたいと思い、そのためには勝手に走ったり蹴ったりせずに攻撃と守備の作戦を立てようとか主将に従わない奴は駄目だ、などということになって・・・つまり戦争ですね。
 大人は、なぜスポーツや戦争が好きなのでしょうか。脈絡のないシーンだけの時間ではなく、ストーリーのある歴史が好きだからなのでしょう。