戦争が正しいと全てが正しい

 たまたま、『むかし原発いま炭鉱』と『暁の宇品』という本を読んだ。前者は2012年熊谷博子氏の本で「炭都「三池」から日本を掘る」という副題がついており、後者は昨2021年堀川惠子氏の本で「陸軍船舶司令官たちのヒロシマ」という副題がついている。どちらも読みごたえのあるドキュメンタリー労作で、書評めいたことを書くような本ではないが、共通していたことを二点だけ。

 採炭は軍事国家の命運を握る最重要産業であったが、国策会社の所長室が天界だとすれば、そこから何層も下に降りたピラミッドの最下層は、有明海の地下深く広がる暗黒の採掘現場であった。その灼熱と炭塵の切羽に、朝鮮半島から連行されて来た労働者が投げ込まれていたことはよく知られているが、それだけではない。囚人や女性はいなくなったにしても、他にも離島出身者、大陸での捕虜、白人捕虜といった人々が区別された。区別があれば格差があり、連帯も生じればまた差別も生じる。
 一方、文字通り天上の大元帥から将官を通り士官下士官と下がって一銭五厘の葉書で買える兵卒が一番下だが、さらにその下に、軍馬、軍犬、軍用鳩と来て、その鳩以下といわれたのが軍属であった。ところが徴傭船員は、せめて軍属と同等にという願いさえ無視され、乗船もろとも戦場に突っ込まされ、海の藻屑と消えていった。

 もう一点。炭鉱労働者の不足を半島から補充するという国策は、不足応募人数のの各村へのに割り当て指名となって降りてゆく。かくて畑に出ている農民が拉致され、「逃げないからいったん家に帰らせてほしい」という願いもかなえられず、トラックの荷台に乗せられてそのまま連行された。
 一方また、船舶がほとんど皆無となった戦争末期には、陸海軍が争って船を求め、洋上で操業中の漁船を見つけると我先に軍船を横付けして、有無を言わさず船員ごともって行くことが横行し、それを指す「横付け徴傭」という言葉があったという。

 「この戦争は正しい」。
 となれば、軍は、何としても勝たねばならず、そのために「必要なもの」があれば、何としても手に入れる。戦争が正しいのだから、その行動は全て正しい。それでも、畑から連行された農民は自発的応募として処理されているかもしれないし、「横付け徴傭」で船ごと接収された漁民も自発的な提供志願をしたことになっているかもしれないとすれば、さらに痛ましい。
 慰安婦は「必要なもの」だった。兵士は、赤紙一枚で「強制的」に前線に「連行」された。ましてや、軍用鳩以下の、おそらく更にその下の必要品である慰安婦を、軍が強制徴発しなかったと考える方が難しい。前線に着くこともなく沈んだある船には、軍需品と兵士と、そして慰安婦20名が載まれていたという。

戦争を

 呑気なこともいってられない。予想通りの大型汚職はともかくとして、オリンピック競技そのものは去年で終わったと思っていたが、気付けば、世界がまるごと常時オリンピック状態になっているらしい。それぞれ自国チーム意識が高まり、とにかく負けるなとか取り戻せとか、下々を鍛え統率してくれる、いささか危なくても「闘う」剛腕監督への支持が、あちこちの国で目立つ。
 そういえば、昨日は、ミサイルが飛んだと、Jアラートで大騒ぎだった。飛行機も列車も止まり、TVは番組を中断して、外出中の人は建物内に入るよう呼びかける。剛腕監督に頼っていると、戦争は、いつか突然、このような緊急放送と共に、他人事のように始まるのかもしれない。

 戦争といえば、ロシアとウクライナの戦争、「森保ジャパン」という言い方にならえば、プーチンロシアととゼレンスキーウクライナの戦争が、まだ続いている。いや遠い地のひとごとではないと、高橋源一郎氏が本を書いたらしい。
 それでも、その戦争が、かつて我々の国が始めたような戦争であるなら、もちろん文学者ならずともいろいろ悩みは大きいだろうけれど、「侵略反対」は、捻じれるこなくそのまま「戦争反対」に続く。

 しかし、今回の戦争で浮上したのは、「侵略反対」だから「戦争賛成」という、臆面もためらいもない物言いである。侵略から国を守ることは正しい、ゼレンスキーのような「戦争は正しい」。こうなると、「立ち向かえ、殺せ」という声にウヨもサヨもない。「民族の自由を守れ、決起せよ祖国の労働者 ~ 前へ前へ進め」。

 例えば、近所の人が暴漢に襲われたときや池で溺れているときなどには、後先なく飛び込むと自分の命に関ることにもなりかねないから、逃げて通報するのがよろしいと日頃からいわれる。ところが、襲われたのが「国」のときは、後先構わず命がけで前線に飛び込めと強いられる。近隣共同体は見捨ててよいが「国」は命を捨てて守れというわけだ。それほど「国」はえらいのか。
 えらいのである。

秋風ぞ

 ブログに軒を借りている大家から、「忘れていませんか」とメールがあった。
 そういえば二ヵ月ほどここに来ていなかった。
 何度目かのコロナの波は一応収まりつつあるとはいえ、次の波がまた来るのであろう秋。

 統一教会勝共連合を引き込んだ元凶一家の3代目、安倍の「国葬」も過ぎたが、これほど政府与党の横暴とエラーが続き支持率が下がっているのに、「びくともしない」と二階老にいわれるままの体たらく。「労働者の代表」が勝共つながりで国葬に参加するのだから、誤算と裏目続きで政権の行き詰まりが起きたとしても、続きは一家内の跡目争いで、どう転んでも野党は弱小ごみのまま。

 だいたい、国葬反対が多数とか政権不支持が多数とかいっても、国葬には若い日本人が多かったぜと、こちらは4代目の麻生老に嘯かれ、調査でも確かに若い世代は国葬賛成で政権支持が多いというから、言い返すにも力がない。もっとも、世に右傾化といわれれば確かに一言でいえばそうではあろうが、とはいえまともな右翼ですらなくて、ただ僅かに最下層ではない現状からの変更の不安が、日本チャチャチャで頑張れ監督さんとなるのであろう。

 そういえばオリンピックもそれ見たことかで、あとは森まで行くかどうかだが。

政府広報以下の記者クラブ

 8月2日、定例会見の質疑応答も終えて退出した自民党茂木敏充幹事長が、記者たちが散り始めた会見場に再び戻って来たという。(Yahooニュース、

 で、茂木氏は、「『聞かれるって思ってたけど誰からも質問がなかったので……』として、再び会見を始めんです」(政治部記者)。そして、統一教会自民党との関係について、「関係部門に対して改めて確認するよう党として指示を出しまして、その結果、これまで一切の関係を持っていないと、このような確認でありました」と述べた。茂木氏の発言がひと通り終わると、朝日新聞NHKによる “質問” があった。 「朝日新聞は『では、旧統一教会は友好団体ではないという認識でいいか』、NHKは『国会での議論の必要性についてどう思うか』というもの。せっかく幹事長を直接追及できるチャンスなのに、おかしな話ですよ。 」

 何か付け加える気にもならない。

暴力はいけない

 しかし「言論」は、「暴力はいかん」などと、説教口調で威張っている場合じゃないだろう。
 かつてあれほど世間を騒がせた(旧)統一教会による社会問題は、「空白の30年」といわれるほど、「言論」世界から消えていた。やはり「忖度」が効いていたのか、「言論」は沈黙したままだった。
 ところが、事件をきっかけに、状況が変わった。なお続く教団による社会問題と、教団と自民党や元首相との深い関係が、浮上してきた。
 暴力はいけない。といったところで、このままでは、結果として、「暴力」が身を挺して「言論」を覚醒させた・・・ということになってしまう。困ったことではないか。
 「言論」の逆転勝利がなるかどうか。暴力はいけないといった見出し語ではなく、「言論の力」が「暴力の力」より断然深く事態を究明し暴露し批判できるし、またするのだ、ということを見せつけなければならない。 のだが・・・国葬に沈黙している「言論」には、ない物ねだりということなのだろう。

暴力はいけない(2)

 しかし、まだ、ひろゆき氏は間違っていた、ということになる可能性が、僅かでも残っているかもしれない。評論家諸氏は、自分たちの発言がただの口先だけのものではないということを、実証するかもしれない。「言論の力が暴力に勝る」ということを実証しなければ、ひろゆき氏が正しかったことになる。
 それにしても、犯人は、許すことのできないその暴力で、何をしようとしたのか。おおよそ、こんなことのようだ。「統一教会に人生を狂わせられたので、報復しようと、教団に関係の深い元首相を狙った」、と。
 暴力はいけない。糺したいことがあるなら、暴力によらず言論で糺すべきだ、とマスコミや評論家諸氏が言うのは全く正しい。
 事件が起こってからマスコミは、統一教会がどんな団体で、どんなことをしてきたかということを、多少は報道しつつある。しかし、まだ、ほとんど取り上げてはいないこと、このまま終われば隠蔽ということになってしまうことがある。
 犯人は、教団ではなくなぜ元首相を狙ったのか。元首相と統一教会が切り離すことのできない深い関係にあるみたからだ。違っているのかいないのか。
 暴力はいけない。いかに教団に人生を狂わせられたとしても、教団と元首相に深い関係があると思ったとしても、暴力で糺すのは間違っている。あくまで言論で糺すべきだ。祖父岸信介元首相が統一教会と共に反共政治団体国際勝共連合」を日本に設立させ、安倍元首相も教団との深い関係を隠していない。その実態はどうなのか。犯人が許すべからざる暴力という手段で糺そうとしたのは、間違っている。そういう以上は、言論の力をみせつけないといけない。口先だけではないかというひろゆき氏をやり込めるためには、言論の力で、教団と元首相や与党との関係の実相を、徹底的に究明し報道してゆくことが求められる。
 山崎雅弘氏は、安倍国葬で何が起こるかを予言している。「生前の不正疑惑がすべてチャラになり、主要メディアは追及も検証もしなくなる(あるいは追及しない大義名分を得る)。『国民全体が敬愛した指導者』という虚構が創られる。批判的論評は主要メディアの自主検閲で封じられる。自民党統一教会の癒着もウヤムヤで幕引き」になる、と。 
 ひろゆき氏といい山崎氏といい、けしからんことではないか。いまこそマスコミや評論家諸氏は、暴力的糾弾を否定して、言論的究明の力を見せつけるべきである。評論家諸氏とマスコミの今後の仕事を、刮目してむなしく待つとしよう。

暴力はいけない

 ひろゆき氏が、こんなようなことをいっている。「言論で言うべきであって暴力はよくないよね」というような、当たり前のきれいごとをいいたければ言ってもいいが、でも、言ってもしょうがないと思う。与党の人が「野党の言うことは一切聞きません」と演説で言って、それが悪いことを言ったというふうになっていない。つまり、「少数派や弱者はどれだけ声をあげても聞かないよ」と政権中枢の人が言っているわけ。そうすると「じゃあ少数派の人って何を言ったって聞かれないじゃん」、「言論じゃ変えられないよね」と考える人が出てくるのは当然では。と。
 モリカケサクラ疑惑をはじめ言論による質問にまともな言論で答えず、野党の言論は全く無駄だと公言する。「暴力に屈せず言論を守れ」とかいった発言をするだけの評論家諸氏は、誰に何をいっているのか。
 それでも、たとえ少数派の言論が無視されているとしても、その他どんな理由があったとしても、それでも暴力は絶対いけない。そういっているのだとすれば、評論家諸氏は確かに正しい。
 どんな場合にも、暴力はいけない。例えば、他国の軍隊が国境を越えて入ってきた場合でも、国連をはじめ国際世論に向けて、あくまで「言論」でアピールすべきだ。撃ってはいけない。撃っては戦争になる。それはいけない。暴力反対・言論擁護の評論家諸氏は、「撃て、殺せ、戦争こそが正義だ」、などという筈がないし、武器援助で稼ごうというアメリカ筆頭の陣営には絶対組しない筈である。ん?
 あるいはまた、海兵隊帰りの男が、たった一人のパルチザンとなって、自作の武器を手に、家族の人生と身上を奪った巨大組織に戦いを挑む・・・といった類のアクション映画は既に何本も作られていて、われわれは庶民は、彼の怒りの鉄拳暴力を、ポップコーン片手に楽しんだりしてしまうのだが、評論家諸氏は、そんな軽率なことはしない。痛めつけられた孤独な反逆者が、遂に悪の集団と結びついた大統領や元首相を狙う、といったラストシーンでも、そんな暴力ヒーローの方に感情移入するなんてことは絶対しない。筈である。

 悲しいかなわれら庶民は、戦争映画に興奮したり、アクション映画に手に汗握ったりする。その上、言論は無視される。しかしそれでも、暴力はいけない、と評論家諸氏がいう。そしてもちろん、それは正しい。