天皇とワンマン社長

 たまたま内田白井両氏の対談文庫本に触れていらぬ道草をしましたが、本全体は大変面白く読ませて頂いたということを、改めて記しておきます。最後まで読みました。

 と書いた上での道草もう一つですが、内田氏は、網野史学を踏まえて、こういいます。「天皇というのは無縁の人たちとつながっている。天皇も無縁の人なんですよね。(無縁の)人たちというのは、いわば天皇に身分保証してもらっているわけですから、無縁の人たちは日本社会において非常にダイナミックな役割を果たしてきたと思う。ですから、例えば被差別部落の問題を、~排除して全部フラットにすればいいんだというのはちょっと単純すぎる~。社会的なそういう機能というのは誰かが担保しておかないと~」。で、それを受けて白井氏は、「(そのとおり複雑なんだから)、単純化して(天皇制の)廃止論にもってゆく(のはまちがっている)」、と。
 「身分保障」とか「担保」とかいう言葉がもうひとつ分かりませんが、それはそれとして、ここには、「ですから」という語が二度使われています。それこそ単純化するとこういうことのようです。・・・無縁の人たちは、天皇身分保障をしてもらっているわけ「ですから」ダイナミックな社会的役割を果たしてきた。「ですから」、被差別部落の問題をフラットにすればいいというのは単純すぎる。単純な差別廃止論や天皇制廃止論は駄目だ、反対だ、と。
 網野氏が見事に光を当てたのは、無縁の人たちが、中世をはじめとする「日本社会において非常にダイナミックな役割を果たしてきた」という歴史的事実です。また例えば特定の被差別部落の人たちが天皇の棺を担ぐといった「つながり」があったとかも事実でしょう。
 しかし、そのような歴史的事実の次元(真偽が問題になる次元)の話に、「ですから」「ですから」と続けて、被差別部落の「フラット」論とか天皇制の「廃止」論といった(単純な)主張は駄目だ、と論結するのは、ちょっと単純な話の運びでしょう。

 「日本社会」という大きなものとは限らず、縁(関係性の絆)で縛られた社会システムがあって、その「上」でも「外」でもいいのですが、ともかくメタレベルに、「縛る-縛られる」有縁システムに「縛られない」、自由で無縁な何かが君臨して、システムをひとつに縛るという機能を果たします。他方、「下」でも「外」でもいいのですが、ともかくシステムから排除され差別される、自由で無縁な人々が、それゆえの不可欠な社会的機能を果たします。で、下の自由と上の自由が、どこかで通底もするでしょう。
 などと、ややこしい言い方をしましたが、天皇でなくても、将軍が白拍子世阿弥のような芸能者を寵愛したり、その他システムあるところどこにもある構図です。そんな昔のことでなくても、例えば、社則に縛られることで会社に所属している社員を、社則に縛られないワンマン社長が統括している一方で、社員外雇用者扱いの掃除夫が、課長クラスでさえ入ったことのない社長室に毎日掃除に入り、たまには「ごくろうさん」と声のひとつも掛けられたり。だからといって、ですから掃除夫もフラットに正社員にしようとか、時代遅れのワンマン経営方式は即改革しようとかいうのは単純論だと退けるべきだとはならないでしょう。いや、そう主張してももちろんいいですが、ワンマン社長と非正規掃除夫を含めた複雑システムが機能しているという事実次元から、「ですから」単純な改革廃止論を退けるというのは、ちょっと単純すぎる気がします。

 いやまあ、どうでもいい話であって、対談本は面白く読ませてもらいましたが。