F・ノート11

 補足。もちろん、いまや単細胞生物とは違って、山に入って木の実を採るだけでなく鉄製の飛び道具を作って鹿を撃ったりもしようとというのだから、私の身体の複雑さははかりしれない。機構的にも活動自体も非常に高次複雑重層化し、そして、境界領域との間でも、種々の分泌や吸収やその他諸々の生理的交換を維持している。
 だが、われわれは、最初から関心をもたないといった生命体内の生−化学的な活動(反応)だけでなく、さらにいま、生命体が境界領域との間で行うそれら物質交換にも、関心を放棄している。
 もちろん、たとえ指1本動かすにしても、そこには筋肉の収縮にまつわる実に複雑な<内的>機構の活動があることはいうまでもないが、それは関心外である。例えば、EVAでも現実のジェット機でも普通の乗用車でも、運転ないし操縦する者にとっては、それらは内なるブラックボックスであり、故障でもしない限り、道路や大空で成り立つ世界を、操縦桿やハンドルさえ普通は意識しないまま、飛びあるいは走る。いい例かどうか分からないが、とにかく身体は常に内なる闇であり、ただ<外>だけが「行動」世界である。もちろん、車が故障したときのように、激しい腹痛で腹だけが当面の世界の大部分を占めたりする時もある。が、これらのことも問題ではない。
 さらに、身体と外的世界の区切りも曖昧であって、例えばわれわれが食物を体<内>に取り入れるのは口にいれたときなのか呑み込んだ時なのか、さらには化管から吸収されが時なのか、また呼吸はどうか。そういったことは単純な単細胞生物の場合でもあるが、しかしこれも突き詰める必要はない。
 繰り返すが、「生活行動」を問題にしようとしているわれわれは、生命体内の生−化学的な活動(反応)と、そしてまた生命体が境界領域との間で行う物質交換にも、関心をもたない。
 行動は、最初から身体の<外で>行われる、自然への介入だからである。弓矢をもって山に入ってゆくわれわれの意識的行動もまた、境界領域と外界との自然循環への介入にはじまり、そこから発展したものと捉えておこう。