2* F・ノート10
 意識は、私の身体と分かちがたく結びついている。いい換えれば、意識にとっての世界は、私の身体という特権的な物体が<いま・ここ>にいる世界であり、そして<いま・ここ>から身体的に関わることのできる世界である。
 身体的に関わるとは、最も基底においては、物質交換に他ならない。但し。
 もう一度元に戻るが、例えば丸裸の単細胞生物を想定しよう。ここで丸裸というのは、生−化学的な活動(反応)以外に、運動といえるような機能をもたないという意味であるが、この場合には、内的な生命活動と境界領域との物質交換だけがあり、境界領域自体の更新は自然循環に任されている。
 やがて生まれる生命体の運動は、触手で何かを引き寄せることであれ鞭毛などで遊動することであれ、自然循環にまかされていた境界領域の更新に介入し、効率を上げることである。いい換えれば、生命活動そのものというより、それを有利にするための、いわば外的自然への<介入>である。
 そして、最も基底においては、この介入運動が、おそらく計り知れない歴史的な試行錯誤を通して、例えばわれわれ人間が山に入って木の実を採って喰うといった行動まで繋がっていると捉えることができる。とまあ、とにかくそう考えた上で、このような行動を、「生活行動」と呼ぶ。
 そして、私の身体が<いま・ここ>山の中で木の実を採ろうとしている世界を、「生活世界」と呼ぼうというのである。とはいえ、特別のことでも何でもない。われわれがいつも、いまここに<いて、見ている>世界なのだから。