1-3:森の都

 ところで、仙台の鎮台は、1871(明治4)年に全国に配置された四鎮台のひとつだが、あとの三つは、東京、大阪と、そして、田原坂の攻防を含む西南戦争最大の激戦地となった熊本鎮台である。前述のように、やがて88年の改組で北海道を除く全国が6軍管区に分けられ、仙台は第二師団の本営となるが、熊本には第六師団の司令部が置かれる。
 一方、明治政府は、1886(明治19)年の帝国大学令、94年の高等学校令により、全国を5区に分けて旧制高校を配備するが、その際にも、二高が仙台城址麓の旧陸軍省用地を校舎として創立され、そして五高が熊本に置かれる。
 そのように、少なくとも、文武を重ねて全国支配軸を整備してゆこうという当時の政府の観点からは、同じ慶長年間に相次いで修築完成あるいは築造された伊達政宗青葉城加藤清正の熊本城を擁し、それぞれ城下町として栄えた仙台と熊本は、いわば新政府の首都東京から延びる分岐軸、東北と九州を抑える「都」として編成し直されたといえよう。
 もちろん、こういった二つの街の対比には大した意味はないのだが、ただ、もうひとつだけ共通点があるといえばある。というのも、仙台が「もりの都」と自称しているのに対して、熊本市もまた、1972(昭和47)年の市議会決議で、「もりの都」を宣言しているのである。ただし字が違う。「杜の都」仙台に対して、熊本は「森の都」。
 といっても、「森の都」は、「杜の都」に対抗して作られたことばではない。いや、市議会の宣言そのものには、こちらも観光のキャッチフレーズにという対抗的下心もあるのかもしれない。けれども、仙台がそう呼ばれるようになったのが、触れたように、1904(明治37)年の天守台開放以降だとするなら、熊本の方がむしろ古く、しかもその始まりが、はっきりしている。もともと熊本を「森の都」と初めて呼んだのは、夏目漱石だというのである。
 すなわち、三木清チャンドラ・ボースが生まれる前年、1896(明治29)年の4月13日。29歳の漱石夏目金之助は、親友菅虎雄の紹介で五高講師として赴任すべく熊本に着き、駅から乗った人力車から初めて見る熊本の樹木の美しさに感嘆して、「熊本は森の都だ」と言ったというのである。