漱石 1911年の頃 21:箕面と和歌浦3

 細かいことですが、衝濤館は、百間が「先生の宿」と書いているだけでなく、12日付の漱石の日記に、箕面での散策休憩のあと、「〜又電車で梅田に帰る、夫から直に明石に向ふ。〜8時30分明石着衝濤館に入る」と明記されていて、その日の宿所に間違いないと思います。不思議なことに、岩波の全集年表(97年の27巻)では、出典がその日記になっていながら、「8月12日、箕面の朝日倶楽部に泊った」とある(15日の宿泊についても、同様)のは、何か別の研究でもあるのかもしれませんが、どうということのない事柄ですので放置しましょう。
 ということで、多分箕面は、観光に立ち寄っただけなのですが、もともとこの項の名を講演地の「明石と和歌山」としないで、観光地「箕面和歌浦」とし、小林一三の名も出したのは、「箕面有馬電気軌道南海鉄道」という対比枠が頭にあったからです。原武史氏が『「民都」大阪対「帝都」東京』で余すところなく展開されているように、「思想としての関西私鉄」のシンボルである箕面有馬電気軌道(阪急)と関西私鉄の異端ともいえる南海鉄道南海電鉄)は、民都大阪と帝都東京、民力と権力、私鉄と国鉄、電車と汽車、広軌狭軌、さらには、キタとミナミ、阪神南海道などなどといった様々な関連対立枠が交錯する、大きな歴史ドラマの重要な一環を形作っています。
 例えば、上の引用で「電車で梅田に帰る」というのは、箕面有馬電気軌道(阪急)で「梅田駅」に帰ったということですが、この関西旅行の経験を基にした13年の「行人」の冒頭では、国鉄大阪駅」に着いたことが、「梅田の停車場(ステーション)を下りるや否や〜」と書かれています。逆に、章が改まって和歌山へ行く場面で、「翌日朝の汽車で立った自分達は狭い列車のなかの食堂で昼飯を食った」とあるのは南海鉄道のことですが、食堂車まである汽車に乗った駅名が書かれていません。これらのことも、上記の「関西私鉄王国」の問題に大きく関わりますが、この項もすでに3ですので、その辺のことは今回はスルーし、さしあたり宿泊観光地だけに矮小化しておきます。
 そんなわけで、途中をはしょって申し訳けありませんが(いずれとりあげるつもりです)、漱石は、13日に大阪に泊まり、翌朝南海鉄道に乗って海岸沿いを南下して和歌山に入ります。1898年に県境を越えて紀ノ川北岸まで延伸されていた南海鉄道は、03年に紀ノ川橋梁の完成で「難波〜和歌山市」間が全線開業していますが、ただしこの年11月の全線電化にはギリギリ間に合わず、汽車の旅です。そして、駅前から09年に出来た和歌山水力電気の路面電車に乗り換えて、和歌浦に行きます。と、それだけにして、早速旅館に入ってもらいましょう。
 といいたいのですが、実はまだです。日記によれば、「あしべやの別荘には菊池総長がゐるので、望海楼といふのにとまる。晩がた裏のエレベーターに上る」、とあります。当時の和歌浦を知る基本文献である藤本清二郎編著『和歌浦百景−古写真で見る「名勝」の歴史』によれば、芦辺屋と望海楼は隣り合った旅館で、共に本館だけではなく別館、別棟をもっています。「あしべ屋の別荘」というのは、多分、妹背山という小島に建てられた芦辺屋の別館だったのでしょう。といっても泊まらなかったのですが(^o^)。
 それより、「あしべやの別荘には菊池総長がゐるので、望海楼といふのにとまる」、というのは、どういうことだったのでしょうか。普通に読めば、目当ての芦辺屋に到着してみると別荘に菊池総長が泊まっていることが分かり、顔を合わせたくないので、その場で隣の望海楼に変更した。とまあ、そんな風に読めます。どうなんですかねえ、予約なしとは考えられませんから、では玄関先で、漱石のクレームによるドタキャン劇があったのでしょうか。
 「菊池総長」とは、菊池大麓のことでしょうが、漱石との交錯点は二つあります。
 「坊ちゃん」の山嵐こと堀田のモデルは、東大予備門で漱石らに数学を教えた隈本有尚だといわれていますが、この隈本は、東京帝大の学生時代に理学部長をしていた菊池大麓を数学者として侮り、卒業時に山嵐的な行動に出て、受け取った卒業証書を目の前で破り捨てるという事件を起こします。もっとも、後隈本は教師になりますが学生には好かれず、松本清張の『小説東京帝国大学』では性格にも卑劣なところもあったと書かれています。しかし山嵐的な単純頭はそのままだったらしく、それが出た?のが、その本に詳しく書かれている、いわゆる「哲学館事件」です。先日文庫に入った立花隆の『天皇と東大』では、この時代、余りにもヒドい天皇制教育支配や政治介入が東大を巡って次々と起こりますので、私学の哲学館事件には言及もされてもいませんが、井上円了の私立哲学館の卒業試験を検定に来た当時の視学官・隈本「山嵐」有尚が、中島徳蔵の試験問題に対して、大逆を理論的に認めたものだとイチャモンをつけたことから事件が始まります。そこから、文部省が哲学館の廃学もちらつかせる強硬弾圧姿勢を示し、国内外で大議論が巻き起こるのですが、裏では、文部省の教科書疑獄事件隠しや、何より天皇神格化と共に進行する文部省−帝国大学勅語教育支配が、大きな背景となっています。で、問題の菊池大麓ですが、当時の文部省トップがその菊池で、結局文部省は、哲学館の卒業生の教員資格授与権を剥奪するのですが、その通知書も菊池文部大臣の名で出されます。ただ、漱石は、隈本時代に山嵐が校長を務める学校を訪れたりしていますが、この頃は留学中ですから、この事件がらみで菊池総長を避けたというのは、理由としては弱いでしょう。
 それより、もうひとつ、今見たように事件が起こったのは、漱石の留学時期にあたりますので、「発狂」の噂で文部省から急遽帰国を命じられて帰国した漱石が「始末書」を提出した宛先も「菊池文部大臣殿」です。形式的な書類とはいえ、まあ確かに、できれば顔は合わせたくなかったでしょうね。
 しかし、それはそれとして、「あしべ屋」を巡っては、どういうことがあったのでしょうか。私は研究者ではありませんので、資料を探したり調べたりは全くなしの、勝手な素人想像に過ぎませんが、予約なしもドタキャンも、正直どちらもしっくりきませんので、むしろ、こういうのはどうでしょうか。例えば、 
 「・・・芦辺館か芦辺屋か忘れましたがね。そこの別荘が小島になっていて、大変良かったとか書いて来てましたですな」。「左様でございます。ですので、その別荘をとって差し上げるようにという池辺からの指示で、早速芦辺屋の方に手配させて頂こうとしたのでございますが、ところが、誠にもって大変申し上げにくいことなのでございますが、生憎ちょうど同じ時期に、教育界の方々の集まりがございまして」。「ははあ」。「それで、京都帝大の総長さまご一行のご予約が、以前から県庁経由で入っておりますそうで。別荘の方のお部屋は塞がっているということなのでございます。申し訳けございません」。「総長というと、菊池大麓さんですか」。「さようでございます。そんな次第でして、大変申し訳けございませんが、あしべ屋の方では、本館の方にもいいお部屋がございますので、そちらでいかがでしょうか、ということなのでございますが」。「それは致し方ないですから、部屋はまあよろしいが。それより菊池さんねえ。実際に顔を合わすことはないでしょうが、できれば敬遠したいですな。別荘が使えないなら、いっそ、他に旅館はないのですか」。「あ、いえ、もちろんそれはございますが・・・」。
 もちろん「あしべやの別荘には菊池総長がゐるので、望海楼といふのにとまる」というのは、予約なしでもドタキャンでもなく、こういうことだった、という根拠も何もないのですが。ちなみに「行人」ではこうなっています。「抜目のない岡田はかねてから注意して土地で一流の宿屋へ室の注文をしたのだが、あいにく避暑の客が込み合って、眺めの好い座敷が塞がっているとかで、自分達は直に俥を命じて浜手の角を曲った。そうして海を真前に控えた高い三階の上層の一室に入った」。
 さて、些事を重ね過ぎました。前回の本編最後「和歌浦は、実は揺れていたのでした」というところに繋ぐだけは繋いでおかねばなりません。今回はそのことだけで終わっておきます。
 日記再録。「14日、快晴。〜あしべやの別荘には菊池総長がゐるので、望海楼といふのにとまる。晩がた裏のエレベーターに上る。東洋第一海抜二百尺とある」。「裏へ下り玉津島明神の傍から電車に乗って紀三井寺に参詣。牧氏と余は石段に降参す、薄暮の景色を見る」。
 「エレベーター」とは、望海楼が敷地に建てた「東洋第一海抜二百尺」という鉄櫓で、漱石の講演でのいい方を借りれば、客を「動物園の熊のように」「鉄の格子の檻の中に入」れて、「宿の裏から小高い石山の巓へ」「上げたり下げたり」する大装置です。
 長すぎるのも何ですので、今回は詳しく検討しませんが、漱石は「行人」で、このエレベーターについて、主人公に、こういわせています(そういえば、最初の方でも触れましたね)。 
 「所にも似ず無風流な装置には違ないが、浅草にもまだない新しさが、昨日から自分の注意を惹いていた。」
 流石に漱石。いやダジャレではありません。「東洋第一」のエレベータは、一方では「所にも似ず無風流な装置」、今風にいえば、景観破壊の装置でありつつ、他方また「浅草にもまだない新しさ」が観光客の「注意を惹く」装置、今風にいえば最新のジェットコースターや観覧車の類ですね。漱石はエレベーターを、そのような二面性で捉えています。
 「和歌浦は、実は揺れていたのでした」と書いたのは、まさにその二面、観光開発か景観保全かという問題を巡って、当地の政界、経済界さらには新聞、世論が、大きな「揺れ」のさなかにあったということなのです。流石に漱石は、開発の象徴であるエレベーターを単純に褒めたりはしていませんが、けれども、「町の名士達」は、漱石を放ってはおきません。
 エレベーターに乗ってみた翌朝の日記。「早車で新和歌の浦に行く長者議員某氏の招く所といふ。トンネル二つ」。この「長者議員某氏」は、多分森田庄兵衛という人物ではないでしょうか。だとすれば、万葉集以来の和歌浦の観光開発を進め、隣接する岬に「トンネル二つ」を穿って、一帯を「新和歌浦」として売り出した「町の名士」です。流石に漱石は、「開発と保全」のせめぎ合いを見逃さず、エレベーターを二面性で捉えてはいます。それでも、「招く所といふ」という書き方には、厳しいいい方が許されるなら、漱石が、少なくともその「揺れ」や「対立」に対して、受身的に無自覚であったことが読みとれます。(今回は入り口までで、後は保留にさせて頂きます。続く)