1897年-11:死と変節

 無計画にはじめ無計画に散歩するつもりなのだから仕方がないが、しょうもない横道に入り過ぎた。もっとも本道があるわけではないのであるが。ともかく、再び、三木とチャンドラ・ボースの生まれた、1897(明治30)年に戻ろう。
 先に熊本からの旅で名前の出た徳富蘇峰は、この年、人生最大の危機を迎える。8月に、いわゆる松隈内閣に請われて内務省の勅任参事官となったことで、彼の看板であった筈の平民主義から、事もあろうに国家主義へと変節したという指弾を、四方から浴びることになったのである。
 同じ月、日清戦争の勝利を背負って、李鴻章を圧しつつ下関条約を締結し、功績によって伯爵になっていた「カミソリ大臣」陸奥宗光が、肺結核のため死んだ。
 前から兆候があったとはいえ、政権内に入るほど決定的に蘇峰を「変節」させたものは、その条約で「獲得」した大陸の領土を、ロシアを筆頭とする三国干渉で返還させられたことへの、心底からの憤激であった。憤激したのは個人であるが、獲得したのも失ったのも国であり、従って復讐し取り戻すべき主体も国である。彼は、臥薪嘗胆、復讐の誓いを通して、このときから「国」と一体化した。といっても国は抽象物であって、具体的には桂太郎ら政治家と、ということになるが。
 だが、憤激し復讐を誓う心情は、もちろんひとり蘇峰だけのものではなかった。こうして、軍事力増強を抑える声は消え、軍備拡張が大幅に進められてゆく。この年の軍備費は、遂に財政の50%、総額1億を越える。