1897年-28:糸車

monduhr2007-04-17

 「1897年」を仮の小タイトルにしたこの道草話の冒頭に、その年1月、三木清と、そしてチャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose)が生まれた、と書いた。
 チャンドラ・ボースは、長じてインド独立運動に身を投じるのだが、そのシンボルのような人物が、いうまでもなく、「マハトマ(偉大なる聖人)」と称されたガンディー(M.K.Gandhi)である。
 ガンディーという人は、ともかく断固徹底の人だったようで、例えば禁欲と決めると妻がありながらセックスレスを貫くだけでなく、自らの性欲克服を確認し示すために裸の若い女性と同衾してみせたというのだから恐れ入る(もちろん、この話が本当だとしたら、だが)。有名な「非暴力不服従」についても断固徹底で、例えばユダヤ人もナチスに歯向かうべきではないだけでなくむしろ進んで自殺すべきだった、といったという。全く逆にボースは、反英独立のためには、必要ならたとえナチスと組んででも、断固闘うのみという闘士なので、当然2人はある時点から袂を分かつのだが、いまは、二人の肖像画がインドの国会議事堂に、並んで掲げられているらしい。
 ところで、ガンディーといえば、糸車を回す有名な写真を思い出す人が少なくないだろう。あるいは教科書で見たかもしれない。糸車(チャルカ)は、綿糸を手で紡ぐ道具であるが、ガンディーにとってそれを回すことは、反英独立のシンボル的行動であり、いまインド国旗の中央にも、糸車がデザインされている。
 道草が過ぎるので、他はカットして、ただ「綿」だけに限ったおさらいであるが・・・。
 海賊戦争に最終勝利を収めて七つの海の支配者となったイギリスでは、ロンドンに本社を置く東インド会社が、インド伝統技術による手織り綿布キャラコや彩色豊かなインド更紗を持ち込み、生活革命が起こる。困ったのは、羊に人を食わせて隆盛を誇っていたマニュファクチャー毛織物産業で、シャツや下着やシーツを思い浮かべれば分かるが、毛は綿に勝てず、国内でも海外でもウールは売れなくなる。綿輸入禁止の法律を作っても、強い需要がある以上止められない。
 そこで、何とかしてインドの手紡ぎ手織りの綿を止める方法はないか、糸車を叩きつぶす方法はないか、ということになって・・・