ホントのようなウソのような(4)うしろ又続

 ということで、「しろ」を郭された余地であるとした以上、「しろ(城)」まで話が延びることになりますが、延ばし過ぎると勝ち目が薄くなって来ますので、そろそろ止めるが身のためでしょう。網代なんか、どうしたって「代用品」だぜなんて反論も出てくるでしょうしね。なお、「やましろ(山城)」国は、都の「山のうしろ(背)」から来ているわけで、順序がちがいます。
 「しろ」の終わりにもう一つ、「しろうと(素人)」などの、「しろ(素)」というのはどうなのでしょうか。素人は玄人と、つまり「くろ」と対比されるのですから、やはり「白」にイメージされます。けれども、「素」である「白」は、漂白したり塗られたりした、加工の白ではなくて、染めたり塗ったりする以前の「生成」の「素」であり、これも、加工の余地ある「しろ」、修練してゆけば玄人(くろ)になれる伸び代、描き代のある素材ということでしょう。
 というわけで、以上、漢字を借りて「白、代、素」などと表されることになる「しろ」は、ホワイトアウトの「白」にも代用品の「代」にも納まらず、いうならば「郭された余地」を原イメージとしている、少なくとも含んでいるとすべきではないか、というお話しでした。
 さて、「しろ」はそうしておくとして、次に残るは、「うしろ」−「しろ」=「う」になりますが、これは料理がし難い。「あ」「う(む、ん)」なんていうような単母音の類は、あらゆることばがそこから生まれてくる原始の海のようなものですから、そもそもひとつのイメージに収めることはできません。が、できないことを無理にするのがウソの強みというわけで、さしあたり、「うし、うま」から行きましょうか。
 牛馬が、共に「う・・」と呼ばれるのは、偶然なのでしょうか。「ニャアこ→猫」や「チュンチュンめ→雀」のように鳴き声が起源なら、牛はともかく、馬は別の名になっていたでしょう。それでは、共に「う・・」と呼ばれる牛馬の共通点は何だろうということになりますが、何といっても牛馬は、人が身近に付き合う鳥獣虫魚の中で、とりわけ大きい生き物です。というか、鯨や熊は誰もが目にするわけではありませんから、普通の人が知る生き物で、「人」より大きいものは牛馬だけです。
 ところで、大きいということですぐ気づくのは、海でしょう。海を見て「う」といったのがことばのはじまりだと例示した人が昔いましたが、海は広いな大きいな、「う」の「み(水)」だな、ということですが、とはいえ海は、ただ広いな大きいなではなく、しかとは捉えにくい、茫洋と広がり「うつろう」「み(水)」です。
 春はあけぼの、次第に移ろい行けば、やがて寒さが消えて「春めく」日々に入るわけですが、「わ」あわあ「わめく」ことばから、次第に弱まりゆくと、やがて心地よさか苦しさか、「う」と「うめく」だけの境地にもなります。まあ、「うつ」や「うる」を持ち出される迄もなく、こちらも苦しいので、この辺でやめておきますが、それでも「うかぶ」「うしなう」はもちろん、「なか」に比べれば「うち」もしかとはしない。いずれにしても、ことばによる限定以前に口端から漏れる「う」は、例えば茫洋とした広がりについて洩らされる歎声としてもありうるでしょう。
 というわけで、最後にまとめて、「うしろ」に戻ります。
 以上をくっつければ、「う−しろ」とは、「う」の「しろ」、つまり、見ようとしても見えず、掻きたくても掻けず、だが茫洋と確かに広がる、もどかしい「うぅ」の領域ないしは余地(しろ)、と翻訳されます。私だけには見えずとらえられないが、しかし確かにひろがる背後の領域、それが、私の「うしろ」ということになりました。
 「ま-え」と「う-しろ」、「ま-こと」と「う-そごと」のお話しでした。いや、ほんと。(終)