本来の人格? 

 (柄にもなく毎日更新などやりかけたため、無駄に駄文を連ねるだけになってしまいました。とはいえ、乗りかかった船だけは致し方なし、承前)
 人は誰しも、裏表のない単一人格でひたすら生きているというわけではありません。
 もちろん私は、法律にも心理学にもうといので、「人格」という語の専門的定義は知りませんが、もともとパーソン(人、人格)という語の元であるペルソナということばは、古典劇で用いられる仮面の意味をもっていたということです。能面ですね。
 もしかすると、私たちは誰しも、日常的にそれぞれある「役=人格」の仮面をつけており、私たちの行動はすべて演技的行動だ、ということになるのかもしれません。
 もしそうだとして、では「本来の人格」とは、そのような意味での日常的仮面をいうのでしょうか。それとも日常的仮面は文字通り「仮の顔(面)」で、その裏にこそ、仮面を被って演技している「本来の<誰か>」がいるのでしょうか。それともまた、日常的には意識下に隠されている本来の<誰か>などはもともと存在しないで、人生とはただ、「演じる主体の存在しない仮面演技」とでもいうべきものなのでしょうか。いずれにしても、「ややこしや〜」を免れません。
 しかし判決は、一方で解離性何とやらという難しい概念をもち出していますが、他方「本来の人格」の方は案外素人にも解る単純な概念で、つまり普段の生活の中で周りの人々の目に映る<フツーの顔>という程度のものを表しているように読めます。もちろん<フツー>の人の場合は、その顔だけで大きな問題は起こりませんから、それはそれでよいのですが。
 けれども被告は、そのとき<フツーではなかった>、と裁判長はいうのです(多分鑑定医もまた)。遺体損傷時には、日常的な<フツーの顔>とは違った、異常な<フツーではない顔>が現れたのだ、だから、フツーの顔、日常的な「本来の人格」には、責任を問えないのだ、というわけです。
 結局、「心神喪失」とは、<フツー>の人が、ふと「魔がさした」り、酒で「人が変わった」り、また衝動的に「我を忘れて」何かをしたりすることではありません。心神喪失とは、<フツー>でない、「本来の」ではない「別の人格」が身体行動を支配し、いわば身体制御機構を乗っ取ってしまう、といった事態なのでしょう。
 で、くどいのですが、過去のある短い行動時に、そのとき<だけ>に、そういう乗っ取りが起こっていたのだということを、はるかに後から、裁判長は、何を材料にし、どのように推理して確認したのでしょうか。