異質性と多様性(2)ナウシカはエデンの夢を見るか?

 人類は、虫に対して、殺戮以外の、どのような「関係性」をもちうるのであろうか。
 そう書いたとたんに思い至った。そういえばナウシカである。もしも、人間にとって虫が共約不能な絶対他者であるとすれば、殺戮的に関わるか関わらないかのどちらかしかないのだろうか。殺すか無視するか、である。もちろんナウシカは、さしあたり、そのような共約不能性を越える存在として登場したのであった。だが、端的にいってしまえば、ナウシカという物語の難しさは、そのような共約不能性を乗り越えるためには、人間と虫を越えたより大きな関係世界を設定する必要がある、ということに気付いたことに始まったといえるだろう。物語は、そこで破綻した。それは多分、絶対他者との間に予定調和世界はありえないということではない。物語なら何でもできるのであり、だからこそ物語だろうからである。おそらく事態は、宮崎が、そういう予定調和世界を描くべきではないという、つまらぬ思いに取り憑かれたということであったろう。
 もちろん、「つまらぬ」というのは、物語としては、という意味である。例えば、美少女クラリスもどうせどこかの男と政略結婚して子供を作り老婆になるのだが、そうなって欲しくないという「夢」は壊さねばならず、だから老婆をヒロインにしなければならない。例えばそのように考えるのは、「つまらぬ」ことである。例えばまた、エコロジーなんてものは所詮腑抜け思想でしかないというのは、それはそうではあろう。だが、歴史であろうと何であろうと、自己批評のかけらもない物語ほどつまらないものはないが、しかしまた自己批評が物語を支配してもつまらない。まあしかし、そのような自己批評の繰り込みこそが、宮崎駿という人のドラマツルギーなのだろう。横道にそれた。閑話休題
 さて、人間と虫についていえることは宇宙人と人間との間にもいえる。「未知との遭遇」や「E.T.」のような予定調和的な作り事はしないとすると、宇宙生物は人類を滅亡させる、させようとする「怪物」としてしか描かれえない。
 ところで、「絶滅の島」では文字通り絶滅なのだが、前掲論文では、藤子F不二雄のもうひとつのSF作品、「流血鬼」が紹介されている。そこでは、人類の絶対他者は「吸血鬼」であって、人類の方は「人間の形をした怪物」を殺すのだが、吸血鬼の方は人類を殺さず、血を吸って吸血鬼にしてしまう。とはいえ、「絶滅」と「吸血」は違うようで同じであって、いずれにしても他者の消滅が物語を終わらせる。
 というわけで、全ての同化政策や一元的グローバリズムは殺戮と同じであるのだが、では殺戮しかないかといえば、ひとつだけあるのが無視つまり無関係である。と書くと、いや無視というのもひとつの眼差しであり、無関係という関係なのだといわれるだろうから、それならそれでもよいのだが、ともかくそれである。
 (・・・いくら与太といっても、訳が分からないことになりました。これでは、訪問された方に申し訳ないですね。以後は口調を換えましょう。m(_ _)m)