自然に死ぬ7

 いったことばと、そのことばでいおうとしたことは、もちろんいつも同じというわけではありません。そこで、飛び降りた青年や子どもは、「死にたいなんて、何いってるの、会社などやめればいい、学校など行かなければいい、君は本当は生きたいと思っている筈だ、必ず生きていてよかったと思う時が来る」、などといわれ、それでもそのような「時」は来なかったりもしますが、時には確かに来たりもするわけです。そんな時、彼や彼女は、自分が「死にたい」といったのは「死にたくない」という意味であって、「死にたいなんて何いってるの」と「いってほしかった」のだ、と気付いたりすることもあるでしょう。
 そういうことでいえば、「死にたい」という発語が、「「死にたいなんて、何いってるの、おばあちゃん」といってほしい」という意味だったりしてもいいわけですが、もちろん普通は、そう単純ではありません。青年や子どもは「何いってるの、生きなさい」と励まされますが、一方お年寄りは、当たり障りなく「まあまあ、そんなこといわないで」などと慰められたり、「ああ、そうですか」と了解されて治療を打ち切られたりするわけです。
 ここまでは、これまでも今も、暗黙のうちに世間が、社会が、やってきたし、していることであって、どうということのない話です。
 「暗黙のうちに社会が」と今いいました。いい方をかえれば、人は、ただ生きる蝉でもなく虎でもなく、複雑な社会関係のただ中で、時に「死にたい」といったり、それが「生きたい」という意味だったりと、何とも実にややこしく厄介な生き方をしており、身体的にも、広義の医療が長く深く介入してしまっている以上は、介入のない野生の(自然の)死もありません。つまり人は、自然には生きず、生きられず、そして、自然には死なず、死ねない、厄介な社会的存在だといえましょう。
 ところが、最近知った私が無知なのでしょうが、テレビや新聞では、「自然な死」ということばが、当然のように使われているようです。
 ここでも、「自然的なものとは社会的なものであり、社会的なものが自然的なものとされる」という、重要な規則が当てはまります。(続く)