3種類も

 (承前)つい先週、「ベンガル湾に浮かぶインド領アンダマン諸島で、先住民が話していた二つの言語の最後の話者が相次いで亡くなり、両言語が絶滅した」、というニュースがありました。亡くなった二人は、大アンダマン島人と呼ばれる先住民族の末裔で、それぞれ、石器時代にまでさかのぼると言われていたコラ語とボー語を母語とする最後の1人だったとのことです。
 上のニュースでいう「言語の絶滅」とは、最後の話者が亡くなったという意味であって、「生活語」としては、両語ともとうに消滅していたわけです。もちろんそれは、単にことばの消滅だけでなく、文化の消滅、生活の消滅、民族の消滅を意味します。
 その消滅は、自然消滅ではありません。「アンダマン諸島の先住民の人口は過去150年の間に急激に減り、虐殺や病気、そして土地を奪われるなどして、5000人が今や52人まで減少」したということですが、具体的には「イギリス人が植民地にするため運んできた病原菌や、日本による占領」などのことですので、ユネスコとすれば、知らない顔ができません。帝国主義グローバリズムが衰退させ消滅させてきた「文化多様性」を守り「多文化共生」を目指す、ということが重要な課題になります。
 でももちろん、「国際協調」のためには「国際コミュニケ−ション」が何より大事だという基本姿勢ははずせませんから、一方ではローカルな少数言語を尊重支援し、他方ではグローバルなコミュニケーションを重視拡大しようという、かなりアクロバッティックな課題を抱えることになります。
 このアクロバットが、実はグローバル支配の形態につながるのだというようなことを四方田犬彦氏がどこかで書いていて、なるほどと思いました。例えばアメリ言語学会とかでは、最後の話者に是非、ボー語でスピーチをしてもらいたかったでしょうが、ただしそれは英語に通訳されねばなりません。ちょうど動物園に、様々な鳴き声言語をもつ世界中の動物が集められ、ただし説明は全て英語で書かれているという具合に。
 しかし、「少数言語サンプル」が、グローバルに利用可能な形で(英語などに訳されて)ライブラリー化されるという構図に問題があるのなら、では、少数言語を母語とする人々自身が、というか世界中のあらゆる話者が、自ら国際語で発信すればよいのでしょうか。
 3言語方式というのは、多分そんなことに関連してくるのでしょう。(続)