白洲次郎という人(20)

 実は、今日と明日と、あと2回分を用意していて、それで終わりのつもりでした。
 ところが、全く恥ずかしいことが起こりましたので、少し長くなって恐縮ですが、2回分をまとめて掲載して、終わりにします。
 [恥ずかしいこと]、については、最後に書きますm(_ _)m。
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 「正直いえば、俺は、白洲なんて奴のことはどうでもいいんだ。だがな、金持ちで権力者の腰巾着ひとりを持ち上げるために、俺の親父をはじめとして、あの時代を生きぬいた庶民を、「従順過ぎた」とか「卑屈だった」とか何とか、見てきたような嘘で「見下げる」ような連中だけは、腹の虫が治まらないんだ。」
 「誰に怒ってるんですか(笑)。」
 「Wikipediaの言葉にあるだけで、誰がどういってるのかは知らないけどな。例えばNHKも、白洲のスペシャル番組をやり、「その時歴史が動いた」ってえシリーズでも白洲を2回も取り上げたらしいじゃないか。もちろん俺は、んなものは見てないし、見たくもないが。
 「そりゃダメですよ。見ないでいっちゃいけないでしょう。」
 「見ないでも分かっとる。どうせ、白洲を持ち上げるために、当時の日本人は、みんな従順で卑屈だった、などと、暗黙のうちに引き合いに出してるんだろう。・・・そうだ。例えば「その時歴史が動いた」で、あれを取り上げたことがあるか。マッカーサーを怒鳴りつけていた俺の親父が、ラジオの前で、悔し涙を流していた、あれだ。21ゼネストだ。あれを取り上げたことがあるか。」
 「ちょっと待ってください。検索します。ああ、これですね、「戦後日本の労働運動の方向を大きく左右した」(W)、とありますね。確かに占領期最大の事件らしいですが、ええっと、「その時歴史が動いた」全355回のリストの中には、確かにありませんね。」
 「NHKも噛んでるからな。・・・俺は子供だったからよく覚えていないが、あれは、何年のことだったか・・・」
 「じゃあ、私から、Wikipediaを基に簡単に紹介しておきましょう。田口トモロヲで聞いてください。」
 「それは別の番組だろうが。」
 「あっちは見たことあるんですか。でも、松平さんはできないんですよ(笑)。」
 ・・・46年5月。戦後の混乱は最高潮に達していた。何より食糧がなかった。配給だけでは餓死してしまう。数十万の人々の「食糧寄こせ!」という声が、宮城前広場を埋め尽くした。その年の8月、白洲は経済安定本部次長に就任した。・・・」
 「ちょっと待ってくれ。そうか、白洲は、あの時もアチラ側にいたのだな。」
 「当然そうでしょうね。吉田の子分なんですから。経済安定本部にどの程度の権限があったか何をしたかは別ですが。
 ・・・庶民の生活は、「安定」する筈もなかった。「従順」では生きてゆけない。人々は澎湃として起こった労働組合に陸続として結集し、政府に、経営者に、生き延びるための賃上げを迫っていた。そして、越せない年を何とか越した翌47年1月1日。吉田首相は、年頭の辞でいった。労働組合運動に参加するような連中は、「不逞の輩」だ。「彼等の行動を排撃せざるを得ない」、と。・・・歴史が動いたその日まで、あと1ヶ月。」
 「ちょっと待て。1ヶ月前からじゃ長すぎだ。もっと手短にやってくれ。」
 「分かりましたよ。でも、短くするのは難しいんですよ。
 ・・・当然、労組はいっせいに反発した。全官公庁の共同闘争委員会がゼネラル・ストライキ実施を決定、11日には4万人が皇居前広場で大会を開き、国鉄の伊井弥四郎共闘委員長が全官公庁のゼネスト実施を宣言した。さらに、全国労働組合共同闘争委員会が結成され、2月1日までに要求が容れられない場合は無期限ストに入る旨を政府に通告した。実行された場合、鉄道、電信、電話、郵便、学校が全て停止されることになる。吉田政府は、あらゆる力を使い手を使って、ゼネストの阻止へと動いた。だが、組合側の団結は堅かった。中労委の調停も決裂した。
 そして遂に、GHQが動いた。伊井委員長がGHQに呼び出され、経済科学局長マーカット少将から、ゼネストは許されないと告げられた。だが伊井らは、マッカーサー自身の指令書を見せろと要求して、一歩も引かなかった。大統領選挙へ出馬予定だったマッカーサーは、労組弾圧というイメージダウンを避けたい筈だと、伊井らは読んでいたのである。(あと一回=下に続く)