ライト(15)最終回

 ご承知のように、中坊鬼平氏は、住管の債権回収で、凄腕を振るい、圧倒的な庶民の支持をえました。庶民の社会的正義から見れば、「不当」にも巨額の金を借りながら返そうとしない越後屋こそ、許せない悪徳商人であり、そんな越後屋の逃げ得を「合法」と認めることは、「合法性」による「正当性」の虐殺です。人々は、越後屋を徹底追及する鬼平を「社会的正義」のために闘うヒーローとして迎え、政府もまた、狡いことに彼を利用したのでした。ただし、映画の最後でダーティー・ハリーが、犯人を射殺するという法逸脱行動によってバッジを返したように、胸のすく仕事に取り組んだ平成の鬼平氏もまた、その取り立ての法逸脱行動を追求されて弁護士を廃業します。おそらく、映画の観客である庶民からは、その事件は、ヒーローが足をすくわれたエピソードに見えたことでしょう。
 けれども、合法性による正当性の虐殺に抗する人々の、「社会的正義」を求める声は、より広い範囲に及んでゆきます。例えば、悪徳企業や狂暴暴力団に顧問弁護士として手を貸す連中。あの地下鉄サリン事件やカレー事件はたまた母子殺害事件など凶悪事件の首謀者や犯人の弁護を引き受け、ことさら些事にこだわって裁判を引き延ばし、理由をつけては無罪にしようとする連中。・・・プロの司法技術で悪人どもの権利は擁護しても被害者や世間の心情を逆撫でして顧みない、こういった連中に欠けているものは、庶民的感覚に立って「社会的正義」の実現に献身することが社会的責務なのだという法曹人としての自覚である、と、鬼平氏や世間は批判的な目を向けます。鬼平氏にもかかわる安田弁護士事件なども、その線上に生まれたたわけです。
 そして、このような流れの延長上に実現したのが、いわゆる「司法改革」だといえるでしょう。これまた、中坊鬼平氏が先駆者だそうで、平仄があっています。
 司法改革の狙いとは、ひとつにはやたら長期に亘る裁判期間の短縮であり、ひとつには裁判というものを、世間離れしたプロだけにまかせず、被害者の声や庶民の声を入れることです。裏返していえば、凶悪犯を弁護してやたら些事にこだわり裁判を長期化するようなことをなくすことであり、また、凶悪犯を救って被害者や世間の処罰感情を逆撫でするようなことをなくすことです。悪い奴には即決で重い罰を。
 さて、長々といらぬことを書いてきましたが、1848年6月のパリだけでなく、実にしばしば、権力の繰り出す「合法性」が人々の「正当性」を虐殺するわけです。事情がそうである限り、私は後者を支持し、後者に加担することやぶさかではありません。
 けれども、昨今では、「人々」の「正当性」は、すっかり見くびられてしまっています。世間の人々の「正当性」は、権力の繰り出す「合法性」に真っ向から対峙することはもはやありません。法のプロは厳しく対立する多様な主義主張から身を離して中立的独立を保つべきだ、という幻想さえいまや不要となり、世間の素人と一緒に仲良くやった方が公平だとさえ思われるほど、世間の人々は大抵同じような世界に同じように生き同じような番組に煽られて、松本某や林某らに即刻重罰を下したいと思っています。いずれにしても、大それた判決は出る筈がない、と法曹界も安心しているわけです。
 ・・・というわけで、権力の合法性が人々の正当性を虐殺するといっても、逆に正当性が合法性を変革するといっても、共に大した事件はもはや起こりませんので皆様安心してお暮らしください、というのが、今回の裁判員制度というものであります、多分。(長々無駄文はこれで終わりです m(_ _)m)