他山の石ですなあ

 「Shinya talk」というブログがあって、藤原新也氏らしい方が書いておられます。で、その最新記事なんですが、「1円の端数に世の中が見える今日このごろである。」という題になっています。
 藤原新也氏といえば、世界の各地を歩かれ、土地土地で生と死の狭間の生活を体験もされ、凡人には及ばない目で<世の中>というものについて深く考えて来られた方です。私も、独特の絵や写真の載った何冊かを読ませて頂きました。そのように、実に様々な<世の中>を見て来られた新也氏が、改めてまた「世の中が見える」といわれるのですから、どんな記事かと思って読んでみましたところ、氏が「偉大な発見」をされたという体験記事でした。「私は世紀の大発見をすることにな」った、というのです。
 もちろん「大発見」というのは、いわばブログ的表現ですが、とにかく、どういうことか、紹介させて頂きます。ただし、以下は引用者の恣意的紹介ですので、前もって氏と読者の方々にお詫びしておきます。全文は、<ここ>で見てください。
 さて、何でも新也氏が「昨日テレビを見ていたら一人の主婦が大根一本買うのにスーパーを2軒はしごしてわずか3円安い大根を手に入れ喜んでいた」のだそうです。2軒のスーパーは歩いて20分ほど離れており、わずか3円を節約するために、必要カロリーだけでも3円を超えてしまいます。そんな主婦の努力を見て、氏は、「想像を絶するデフレ大不況のようだ。」「実に涙ぐましい。」という感慨をもたれたそうで、それが発端です。
 そこで、新也氏は自分を振り返り、そういえば、「自分はひごろ商品の値札の1円2円端数はまったく見ていない」ということに気づかれます。例えば今朝、コンビニで牛乳を買ったとき「気づいたのだが、自分は牛乳を買う際、端数の1円台ばかりか百円台十円台も見ず適当に手にとってレジに向かっていた」、というのです。
 そこで、これはいかんと、道の反対側に行ってみると、「ここで私は偉大な発見をする。」「わずか歩いて40秒のコンビニだから同じ値段だろうと思っていたところ、なんと」、同じ商品が「1円高いではないか!」
 そこで、さらに、「ふと魔がさすように、無駄であろうが個人商店の牛乳はどうであろうかとの興味がわいて」隣の個人商店に向かわれます。その店は、「品数も少なくよく生き残っているなぁと」いうような店で、憐憫からか、「たまに商品を買ってあげて」いたのだそうですが、そんな店ですので、ハナから、ここでは牛乳も「とんでもなく高い値段なのだろうと決めていた」のだそうです。
 「ところがである。ここで私は世紀の大発見をすることになる。ななんと」、個人商店の方が、コンビニより4円も安かったのだ、というわけです。そこで新也氏はいわれます。「ここで分かったことはコンビニの商品というのは決して安くないということである。それがわかっただけでも件の主婦に感謝しなければならない」。そして氏は、こう結びます。「デフレ不況の折、牛乳ひとつで世の中、いろいろ見えますなあ。」
 新也氏といえば、排泄物を介して人と犬が共存するような「世の中」などを、地を這うようにして体験して来られた方であり、「世の中」のことはもう大抵知り尽くされておられると思っていました。でも、そうではなかったようです。牛乳に値段の差があることや、主婦の1円単位の「実に涙ぐましい」生活など、私たちが余りにも当然のように見過ごしてしまうありふれた「世の中」の相を、氏は、なお新鮮な驚きをもって「大発見」されるのです。そこが凡人とは違う姿勢なのでしょう。
 もちろん、誤解しないで頂きたいのですが、人が何に執着し何に無頓着なのかとか、どのような貨幣意識や価値観をもっているのかとか、あるいはまた実際にどんな生活をしているのかとかいうような一切は、どうでもよいことです。あくまでも仮にですが、氏がインドへ行かれるときに、格安チケットで行かれるのか、それともビジネスクラスやファーストクラスで往復されるのか、というような実際生活には興味ありません。
 しかし、読者として「物書き」藤原新也氏をみるときには、少し違います。氏の読者としては、今ごろはじめて、3円のために20分歩く主婦に驚いたり、牛乳の値段の実態を「大発見」したりして、まあそれはいいとしても、「牛乳ひとつで世の中、いろいろ見えますなあ。」などと、書いてほしくなかったですなあ。
 ・・・と書きましたが、以上は、実は前置きです。
 もちろん人ごとではありません。牛乳に関していえば、私は1円はともかく10円単位は必ず見て買いますが、そんな違いは何の意味もありません。私もまた、最近は、「不況で大変ですなあ」「いろいろ見えますなあ」というような口調で書いています。どこかで、似たような態度が出ているに違いありません。いやあ、ブログひとつで世の中いろいろ見えますなあ。他山の石ですなあ。これが本文。