思い出したこと(承前)

 もう亡くなりましたが、ちょっとした会社の役員をしていた叔父がいまして、その家で夕食をご馳走になっていたとき、自慢話を聞かされたことがあります。
 当時はまだ、春闘というのが大きなイベントで、叔父は、経営者側で団体交渉にのぞむのが仕事だったらしいのですが、
 「前の日にな、市場を一巡りしておいたんだよ。野菜とか魚とかの値段をちょいと覚えてね。それで、当日組合の連中が、生活が苦しいから大幅賃上げしろというからね。いってやったんだ。君らそんなこというが、大根1本、いくらするか知ってるのかね。卵の値段は? 生活生活っていうが、そんなことも知らないのか、ってね。」
 もちろんこれは、ズルいわけです。けしからん騙しです。組合幹部の方は、帰りに買い物を頼まれたりすることもあるでしょうが、叔父の方は、日頃八百屋なんか入ったこともないのですから。大根の値段なんて、もちろん前日に初めて知ったのです。
 しかし、団体交渉の席で、野菜の値段に通じている「かのようなフリ」をすることで、もしも、賃上げ額を10円でも抑えることができたとするなら、確かに経営者側の人間としては、大きな「仕事」をしたことになります。実際、小さい会社の交渉では、そんな悪巧みも多少の効果があったのかもしれません。叔父は、少なくとも自分では「してやったり」の気分だったので、わざわざ自慢したのでしょう。
 「いやあ、それにしても、大根の値段なんてものを、はじめて知ったよ。すぐ隣の店でも値段が違うんだね〜。大発見だ。」確かに叔父にとっては大発見だったので、誰かに話したかったのでしょう。そこで、たまたま来ていた私に聞かせたのです。それにしても、そんな話を、叔父はなぜ高校生の甥にしたのでしょうか。もちろんそれは、私が、仕事とは全く関係のない人間だったからです。
 間違っても会社では、叔父は、そんな発言はしなかった筈です。会社では、世情に通じ組合幹部にも一目置かせる手強い役員という騙しの顔で、しかるべき発言をし、かなりの報酬を受け取っていた。それもまた、彼の「仕事」だったわけですね。少なくとも、叔父はプロだったと思います。
 「え? あの専務が、大根の値段は店によって違うんだね〜なんて書いてる? ガッカリだね。報酬返せといいたいよ。」