謝るとはどういうことか

 例の冤罪再審法廷に、取り調べを担当した元検事の森川なる人物が出廷した。しかし、謝罪を迫られても謝らなかったという。 
 今回の事件は、幸いなことにDNA鑑定によって、冤罪であったことが明白となっている。元検事は、自分の取り調べによって、無実の人を罪におとしたのである。
 おそらく、違法な取り調べではなかったというのであろう。しかし、百歩譲り千歩譲って、甘言だけで強圧的な態度はなかったとしても、誤った自白をひきだしたことは、検事として無実の人を「自白させた」ことは、明白な事実である。
 無実の人に自白させたことは、誰にも責任を問えない、自然現象のようなものだとでもいうのか。それとも、容疑者の方に責任があるとでもいうのか。自分の方はゼロ%で、容疑者の側に100%の責任が。
 おそらく彼はいうのであろう。自然現象ではないが、責任問題はない、と。当時の検査水準と合法的取り調べの範囲内で、正しい判断をしたのだから、責任はない、謝ることはない、と。
 責任ということばには、二通りの意味がある。責任を感じる、謝るということにも、二通りの意味がある。元検事の頭には、責任を認めることがそのまま損害賠償責任につながるような責任、ひとことでいって法的責任のことしか、ないのであろう。違法なことはしていない。深刻な冤罪事件を引きおこしたとしても結果であって、違法でなく故意でないと。当時としては正しく判断したのだと。
 阪神大震災で生き残った人や、福知山線列車事故で助かった人の後追い記事などには、「謝る人」の姿がある。たまたま、隣家の人が死んでしまった、たまたま隣の乗客が死んでしまった。そして、たまたま自分は生き残ってここにいる。そのことに<責任>を感じ、墓の前で手を合わせ、「ごめんね」と涙を流す人がいる。
 元検事にとっては、こういう人はバカなのだろう。
 「正しいことしかしない」ロボットは、謝ることができない。「正しいことをしたのに、なぜ謝る必要があるのか」。確かに、こういう<謝罪>をすることができるのは、ただ人間だけである。人間だけが、人の<心>をもっている。法的責任がなくても、むしろそんなものがないところでこそ、時に涙を流して<謝る>のである。