折衷カタコト

 毎日更新などといったとたんに、昨日書かないままになってしまいました。実は今日もちょっと忙しいので、短く・・・  
(承前)協和語のことに触れましたが、どうもそういう体系的なものはなかった模様。となると、互いに使用言語の異なる人々が、ある事情で急速に接触した時に起こる、いろいろなケースがあったのでしょう。もちろんカタコト日本語だけではなく、カタコト中国語も。
 例えば、奉天といえば、日露戦争の会戦とか満州事変の土肥原政府とかで知られる都市(旧名)ですが、20年代にいた日本人2万人のうち、まともに中国語が話せたのは何と20人だったということです。一応確かな資料にあったのですが、しかしこれ、ほんとですかね。ほんとだとすれば、1,000人のうち何と999人は、日本語でだけで暮らしていたということで、そんなことじゃ、そりゃ追い出されるに決まってますね。それはともかく、日本人は、それほどいばっていたとすれば、例えば車挽きなんかはしないわけで、そういった仕事は現地の人々にやらせていたわけでしょう。となると、いくら日本語しか使わないといっても、車に乗るときには、中国語しか話せない人々と、ある程度ことばを交わさねばならなかった筈です。
 ということで、どちらからも、「車乗る両(リャン)毛銭、好(ハオ)」とかいった(いやこれはデタラメですが)、折衷カタコト語が使わたようです。そういえば戦後に発明されたという「ちょとまてペーパー」などもそれですね。いやどうも、品位が急落下しましたので、「こっちへカムヒア」位にしておいて、時間がないので、今日はこれで退散します。次回は真面目に。