AKB48、古さに拍手!

 新聞に大きく「総選挙」と出ているので、何かと思えば、AKB48でした。
 もちろん特に見たことも聴いたこともありませんが、今のご時世、嫌でも多少見えたり聞こえたりはします。それにしても売り方がうまいですね。いうならば育成ゲーム。自分が育て上げ、卒業独り立ちさせる・・・といった気になるのでしょう。
 といった程度のことしか思っていなかったのですが、先日たまたま、「卒業」という、旬らしい曲を聴きました、というか動画を見ました(と書いてから、見直したら「Give Me Five」でした。スイマセンm(_ _)m、その程度の知識です)。・・・で、改めて、その「古さ」に感心した次第です。
 ご承知のように、日本語の音は、基本的に<子音1+母音1>という単純な音が、それぞれ平板に、等間隔の拍(モーラ)で発音されます。音のつながりについても、長短や強弱アクセントなどもなく、ただ、単調な上下運動をするだけです。
 では、「はなす」が「うたう」(歌、唄、謡、詠・・)に変わるとは、「話す音」の等拍連続リズムが、どのように変化することをいうのでしょうか。詳しくは分かりませんが、音階などは別としてリズムの面では、一つは、頭打ち等拍4拍子に整えられる音頭的なリズムで、七五調もその関連で考えられるのではないかというのが今のところひとつの仮説です。で、もう一つが、延長したまま節変化でつけられる無拍のリズム。
 そこで、「近代」ということになるのですが、例えば、有名な「からたちの花」が、典型としてよくあげられます。白秋の詩につけられた山田耕筰の曲は、日本語の特性通りに、平板な音符を等拍に並べ、しかも、例えば1番と2番で、「花が」と「棘は」、「咲いたよ」と「痛いよ」の、上下アクセントの違いが、きちんと音符に反映されます。ただそれは、あくまで、いわゆる「標準」規範アクセントです。
 こうして、白秋、耕筰コンビは、「西洋近代」を規範としつつ、近代日本語と近代日本歌曲が、そのような近代スタンダードに耐えうるものであり、しかもそこにナショナルな特色を出してゆけるものであるということを、そしてまた、そのために日本語と日本の歌自らが、「標準」の規範性を持たねばならいということを、見事に示したのだといえるでしょう。その意味で、まさに「近代日本」を、何重にも象徴する曲といってもいいかもしれません。ちょっと言いすぎましたが、問題は、これではありません。
 近年、日本の歌の「カッコよさ」は、このような日本語の発語やリズムやアクセントなどなどの規範を、破ることに熱意を集中してきました。
 曲名も歌手も横文字というのは当然として、例えば、”Baby, Quick may know at in Winny, My heart〜”え? 何だ? と思えば「Baby,キミノアイニ〜」だったりするのが、カッコいい。もちろん曲の方も、極力日本語リズムが壊れているのがカッコいい・・・。いや、実際の曲は失礼なので、こんなのじゃないかなあという勝手な想像創作ですが。
 ところが、AKB48には驚きました。他の曲がどうかは全く知らないのですが、「Give Me Five」(秋本康詩、笹淵大介曲)という「今」の曲は、驚くべき「古さ」です。いや、悪口では全くありません。CDを買うと、CMソングが入っている代わりに、握手会や投票権などの特典がついているとかいった程度の噂は聞いていましたが、実際の曲を聴いて、その日本語の見事な「古さ」に、実に感心しました。「Quick may know」などと違って、「さ・く・ら・の・う・た・が・ま・ち・に・な・が・れ〜」は、あくまで日本語の基本である<平板等拍>で、誰もがどんどん歌えます。詩も、「制服はもう脱ぐんだ」とチラリも意識しつつ、基本はあくまで真面目で普通で、幼く可愛く、「明日を信じよう」と前向きで・・・今更何をいうのかといわれるでしょうが、アキバ文化の粋ですね。商売上手い!