悼:吉本隆明

 ネットで眼鏡まで買って、天候も悪くなく、目も覚めていたのに、時間を間違えて、かじりかけ煎餅状態を見ただけでした(^o^)。どうせその程度の意識だったのでいいのですが、間違えて教えた人に悪いことをしました。というように、どうも最近調子が乗らないのか、ブログ更新もしないままで、失礼しました。昨今は、ツイッターフェイスブックに移って、という人も多いようですが、私はそういったことでは全くないのですが。
 それにしても、ちょうど半年ぶりですね。 
 ところで、もうかなり前のことになりましたが、あの人の訃報は、予想通り、レトロな昭和横町は別として、世間的にはほとんどスルーでしたね。でも、やはりひとこと位は触れておかねばならないような気持ちが残るのは、あの人が闊歩していた横町の記憶が、私にも残っているからなのでしょう。
 先日、朝の新聞で、辻村探月というミステリ作家のコラムを読みました。こんな話です。
 「・・・さる高級レストランに友人と食事に行った時、横に座る一団が、どうやら合コンらしい。つい聞き耳を立てていると、そのうち、これまで食べたものの中で、何が一番おいしかった? という会話を始めた。こういう店に来ているのだから、さぞや高級な店の名前が出るんだろうな、と思っていると、予想通り、「鎌倉のフレンチで出た鴨肉」とか、「京都のあの店で食べた鍋」とか様々な答が並んだ。すごいなあと圧倒されながら、なお聞いていると、最後に、一番若そうな男の子が、「君は?」と聞かれた。彼は、少しはにかんだような笑みを浮かべて、「江ノ島で食べた、海の家のやきそば」と答えたのだが、すると「それ特別な味付けでもしてたの?」と真面目に尋ね返され、「え」と困惑しながら「たぶんソースか塩」としどろもどろに答えるのが痛々しかった。
 あらら、と彼に同情しながら、ふと前に向き直って、一緒に食事をしていた親友を見て、あ、そうか、と気づいた。食事をおいしくするのはきっと、誰とどんなふうに食べたか、という味付けだ。ごめんね、と横の彼らに心の中で謝った。鎌倉の鴨肉も、海辺のやきそばも、ひょっとしたら、大好きな人との思い出の食事だったのかもしれないもんね。」
 原文はもっと長く、ふくらみもあったのですが、下手な要約で申し訳けありません。それはそれとして、読み終わって朝の爽やかな風を感じたのは、おそらく、「あらら」と「ごめんね」という、二つのことばのせいでしょう。
 ところで、そのコラムを読んで、2、3日前の訃報と一緒に、ある話を思い出しました。音楽といえばクラシックだった昔、しかるべき人たちが、「やっぱりブルックナーだろ」「いや僕はマーラーだね」とか何とか話している席で、ひとことでその場を黙らせてしまう「勝ち手」があるというのです。で、それは、「俺は美空ひばりだね」というせりふだ、・・・というのがオチなのですが、海の家の焼きそばとは違って、こちらは、何とも爽やかさのない話ではないでしょうか。
 けれども、このような話に、溜飲を下げる人たちもいたのでした。日頃マーラーとか何とかいった話に口を挟めず、ひそかにCDを聴いてみてもまるで面白くなく、やっぱり自分には分からないなあなどと、気が引けていた人たちです。気が引けるといっても、大体、そんな話をするのは上から目線のヤな連中のことが多いので、素直に畏れ入るというわけではありません。「君もマーラー位聴いてみたまえ」とか言われて、何もいえない自分に、気分は鬱屈します。というわけで、「何いってやがる。俺は美空ひばりだね」という啖呵が、日頃気が引けることの多い「大衆」の溜飲を下げてくれたのですね。
 と書きましたが、そうではありません。実際の「大衆」は、マーラーの話になど気が引けることなどないからです。「デモなんかに行かずに俺は昼寝してるね」という啖呵に溜飲を下げるのは、日頃、デモに行けないことに、あるいは行きながら乗れない自分に気が引けていればこそですし、「語学ができるヤツらは俺のためにせっせと翻訳してればいい」という啖呵に溜飲を下げるのは、日頃語学ができないことに気が引けていればこそであって、「気が引ける」ことなど無縁に日々を暮らしている人々には、関係のない話です。
 けれども、英語やマーラーを得意げに、つまり中途半端にしゃべっている連中は連中で、疎外し疎外された他者である、大衆という「幻像」に気が引けていたりしましたので、啖呵が「勝ち手」になりもしたのでしょう。
 そういえば、あの人は、とにかくやたら「勝ち」にこだわった人でしたね。本の後書きに、「勝った勝った」と書いていたのはご愛敬ですが、ともかく論争には勝たないと気が済まない。大体「勝ち」にこだわるのは、コンプレックスを埋めるためである人が多いのですが、あの人もそうだったのでしょうか。もっとも、週刊誌の広告によると、最近も「<脱原発>異論」とかいっていたそうですが、もはやずっと前から、まともに論争を買ってくれる相手がいなくなっていました。それでも最後まで、自宅ジムでの罵倒罵倒の月極シャドウボクシングは続けていて、少数の固定ファンの溜飲を下げていたのでしょうか。まあ、そういう役柄としては、ボクシング能力があったことは間違いありません。
 結局、「気が引けることはないと開き直ってみせる」、というのが、あの人の芸というか、大変な功績だったのだと思います。「獄中何十年神話なんかに気が引けることはない」に始まるその功績は、大いに認めるに吝かではありません。例えば、「今日はデモがある、だが実は子供の誕生日なんだよなぁ・・・」、といったジレンマ。デモに行っては妻子に気が引け、デモを休んでは仲間に気が引ける。そんなとき悪友が、日頃理論家気取りでアジっている連中にも理解できないような、やたら難しい言葉を操るエラい人が、「共同幻想と対幻想は逆立する別モノだ」とか書いてるぜ、と教えてくれる。何のことだい、それは。いや、実は俺にもよく分からないけど、ともかく、デモを休んでも「気が引けることはない」ということらしいぜ。ああ、それはいいことを聞いた。
 「ひばりだ」と開き直るのかと思えば、やたら難しい漢字を散りばめたり、わざと「マチウ」などと書いてみせたりと、「俺はマーラーだ」以上に「そこらの半端な連中なんかには分かってたまるか」臭が芬々で、ただそうなると、ましてや庶民大衆にはちんぷんかんぷんなのですが、そこのところも、いや俺は回路の先で必ず出会うのだ、第一俺は日頃から漫画も読むロックも聴く天ぷらも揚げられるなどと、とにかく開き直ります。
 それでもともかく、「今日はデモに行けないゴメン」といわねばならなかった時代に、そう感じて気が引けていた善良な人々にとっては、彼の本は、書棚に置いておくだけで、気が引けることなく昼寝ができる、大変ありがたい印籠だったのでした。
 もちろん最近では、デモなんかで気が引けることはそもそもありませんが、それでも例えば、巨費を使って埋蔵金を掘ったりゲームで儲けたりした人なんかも、神棚に安置してますよと大声でアピールしています。今なお開き直りの印籠として崇める人がいるのは、結構なことだと思います。
 追悼ですのに、あらら、ごめん、爽やかさのないお話になってしまいました。改めてご冥福をお祈りいたします。