漱石 1911年の頃 1:講演と観光1

 重いことは書かない書けない軽薄なブログながら、いやあるいはそれ故に、期間が空いてしまいました。2年来、とみに、見たくなく聞きたくないことばかりが、見ようとしなくても見え聞こうとしなくても聞こえます。また今日のニュースによれば、貧富による教育格差は「やむえをえない」という人の方が遂に多くなった、という調査結果が出たとのこと。天災だから孤児も孤老もやむをえない、帰れなくてもやむをえない。原発辺野古もやむをえない。何もかもやむをえない。それでもまだ、一応「絆」とかいうだけはいってたのですが、それさえ今は昔なのでしょうか。貧富による教育格差やむなしとは、貧富格差と教育格差のループの固定化、つまりは身分制度やむなしということに他なりません。もっとも、とっくに世の中は、外国人研修制度や派遣労働者制度、下請け制度などなどの奴隷制で動いているのですが。それでも、株をもっていなくても株価が上がったと喜び、医療格差が押し寄せるTPP参加に浮かれ、身分制度も歓迎し、みなさん、楽天的ですねえ。やむをえない、やむをえない、ええじゃないか、ええじゃないか。そのうちアベノお札でも降るのでしょう。
 (続)のまま放置しているものについてはまたいずれ、ということで、最近ちょっと話す機会がありましたので、世の中のことは忘れて、少し漱石の話でもします。
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 いつだったか以前にも触れましたが、夏目漱石は1911年に、和歌山で「現代日本の開化」という講演をしました。この講演は一般に、14年の「私の個人主義」と並ぶ、漱石の代表的な講演と見なされ、近代日本における思想の歴史といったものを考える際には必ずとりあげられる、有名な講演です。
 1905年、強引に富国強兵を押し進めてきた日本が、清国に勝ち、さらに大国ロシアとの戦争にも何とか勝ちをおさめると、これで日本は一等国だ、という声が世間に溢れます。けれども漱石は、08年に新聞連載された『三四郎』の中で、広田先生という人物に、「いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね」、日本は「滅びるね」、といわせます。どこがだめで、なぜ滅びるのでしょうか。漱石は、上記の講演「現代日本の開化」でいいます。西洋近代を追ってきた「現代日本の開化」は、「内発的ではなく外発的」で、「上すべり」なものでしかない、と。こうして漱石は、このような「現代日本」にあっては「神経衰弱」に陥る他ない知識人の運命を、小説の中に刻んでゆきます。
 とまあそんな風に、「現代日本の開化」という講演を、「日本近代」に抗う漱石の姿勢を示した重要な講演だと見る見方が、かなり行き渡っているようです。漱石の研究者ではない私には、それを覆すつもりは全くありません。
 ただそうなると、ささやかながら、ひとつの疑問が残ります。なぜ漱石は、そのような重要な講演を、他ならぬ和歌山でしたのでしょうか。
 ネットによれば、一昨年、講演百年後を記念して地元和歌山で開かれたシンポジウム(→ここ)で、そのことがひとつの「謎」として議論されたようです。漱石が、「講演先として和歌山を強く望」み、巨大な野外エレベーターを建てた旅館に宿泊してエレベーターにも乗り、そして県会議事堂に集まった聴衆を前に、現代日本の現状についての根底的な批判を語ったのは何故なのか。前年の大逆事件に強い衝撃を受けた漱石は、全国最多の逮捕者を出した和歌山県で、「大逆事件への見解を和歌山の人に向け語」ろうとしたのだろうか。あるいはまた、名勝地和歌浦に「東洋第一」の巨大鉄骨エレベーターを建てるような「近代的な観光開発に、漱石はある種の批判的な関心があった」のであって、それを「現代日本の開化」の象徴と見て、「批判的な関心」を語りたかったのだろうか。・・・ネット上の新聞報道ですので、詳細はもちろん、正しく伝えられているかどうかも分かりませんが、大体そんなことが話題になったようです。
 もちろん、それらの見方についても、私はなるほどと思うばかりなのですが、あと少しだけ周辺を眺めてみましょう。
 そういいながら、のっけから何ですが、実際の講演では、当の漱石はこんないい方をしています。
 「尤も私が此和歌山へ參るやうになつたのは當初からの計畫ではなかつたのですが、私の方で近畿地方を所望したので社の方では和歌山を其中へ割り振つて呉れたのです」
 これでは謎でも何でもなくて、和歌山への来訪は、単に主催者の方で「割り振った」ように聞こえます。
 ただ、漱石のこのいい方は、状況を正確に伝えてはいません。
 この講演は、明石、堺、大阪と和歌山の4カ所で、漱石だけでなく他の講師も加えて開かれた、連続講演の一環です。主催は大阪朝日新聞社で、おそらく、販売促進を兼ねた文化事業の一環だったのでしょう。この時期、大阪朝日が、同様の講演会を他の地方でも展開したのかどうかは全く知りませんが、いずれにしても、漱石の意向よりは、近畿での連続講演会という社の企画が先行したことは間違いないでしょう。ただし、和歌山については、社が最初から講演地に組み込んでいたのではなく、やはり漱石の方からいい出したようです。当時、大阪朝日でこの企画を担当していたらしい長谷川如是閑宛に出した手紙(11.7.26.)で、漱石は、こう書いています。
 「拝復。たびたび御手数恐入候が、出来るなら十日から十五日の間に願ひ度。夫から和歌山などはまだ行った事がないから、どうか其方へ向けて頂き度候」(句読点は引用者、以下同じ)。
 この手紙を基に、講演冒頭での漱石の発言を、ことばを補っていい直すとするなら、こういうことなのでしょう。「今回は、大阪朝日から近畿地方での連続講演の依頼があって、こちらへ参りました。尤も和歌山へ參るということは當初からの計畫にはなかつたのですが、担当者と打ち合わせをしている内に、近畿地方なら、まだ行った事がない和歌山を入れてほしいと私が所望し、社の方で和歌山を講演地のリストの中へ割り振つて呉れたのです。」
 周知のように、この時期、漱石の体調は尋常ではありません。幸徳逮捕が報じられた前年6月、胃潰瘍で入院し、8月に療養転地先で大吐血、いわゆる「修善寺の大患」を経験し、秋10月に帰京入院、明けて11年の2月26日にようやく退院したところでした。
 ここで、そのような最悪の身体状況であるにもかかわらず、真夏の遠い和歌山にまで出掛けて、連続講演をしようとしたのはなぜかと問い、そして、この時期の漱石には、現代日本に対する根底批判を敢えて訴えようという強い思いがあったのであり、彼をそういう思いに駆り立てた背景には、その年処刑された大逆事件の衝撃であった、といった風に答えてみることは許されはするでしょう。漱石には、事件への直接的な言及はありませんが、事件への関心や強権への強い批判姿勢を示唆するいくつかの傍証をあげることも可能です。そういう見方に立つとすれば、なぜことさら和歌山での講演を望んだのかという謎の答えも、そこに見えるかもしれません。こうして漱石は、和歌山市で、幸徳らが死をもって抗った「現代日本」の病根を摘出する講演をした後、管野スガが荒畑寒村と共に「牟呂新報」に在籍した田辺に立ち寄り、幸徳秋水が大石誠之助を訪れた新宮をまわって、沈鬱を深めて帰途に着いたのでした。・・・・・といった可能性はあったかなかったか、ただ、実際にはそうではありません。漱石は、出発の前から、こういう計画を洩らしています(11.8.8.渡辺三山宛)。
 「かねて申上候通、小生阪朝催しの講演会に出席のため九日か十日に彼地へ参り、和歌山、界(堺)、明石、三ヶ所巡業の上帰り候。帰りに高野山に登り伊勢へ廻らうかと考へ候」
 高野山から伊勢へ、というのは、ま、一言でいえば観光、当時の言葉でいえば遊山ですね。そして講演でも、聴衆にこのように打ち明けています。
 「(和歌山をはじめとする講演旅行の)御蔭で、私もまだ見ない土地や名所抔を搜る便宜を得ましたのは好都合です。其序に演説をする──のではない演説の序に玉津島だの紀三井寺抔を見た譯でありますから、此等の故跡や名勝に對しても空手では參れません」
 玉津島、紀三井寺は、名勝地和歌浦に宿泊した漱石が見たり訪れたりした名所、今風にいえば観光スポットです。もちろんこれはウィットですが、それにしても漱石は、観光が嫌いではありません。(続く)