「サルトルとボーヴォワール」蛇足

 何となく書き始めた駄文を前回で終わるつもりのところ、最後に「正解」という言葉を書きつつ誤解があるかもしれないと思い付き「あと1回」としたのですが、そのままになっていました。少しだけ付け足しておきます。誤解なき方には蛇足なのですが。
 この映画はもうひとつ何を言いたいのか分かり難いなどと、失礼なことを書いてきましたが、それは私の勝手な物言いで、もともとは特に難しい映画ではありません。制作意図は、普通に、「サルトルボーヴォワール」二人の「哲学と愛」のリスペクト映画を大勢の人に観てもらいたいということでしょう、多分。何だかだいっても、レヴィ=ストロースや以後の「現代思想家」たち、またいわゆる「第三波」以後のフェミニストたちのリスペクト映画ができる時代は、まだ来ないのかもう来ないのか分かりませんが、まだまだ「サルトルボーヴォワール」には、少なからぬ人々に<あの二人>の映画を観に行ってみようと思わせるだけの残り香があるということなのでしょう。
 それにしては、と私は、ちょっとした言いがかりをつけて遊んだだけです。知的エリート青年たちの「小市民」批判の志をリスペクトするにしては小市民的なシーンが多かったのでは、とか。言葉で闘う抵抗の作家を描くにしては言葉よりパンチという場面が目立ったのでは、とか、一夫一婦制から自由な関係を強調したいのだったら墓は隣というコメントで終わったのはどうかな、とか、自立した女性の生き方をリスペクトするにしては男がリードしていたようにみえたけど、とか。もちろん、何度も繰り返してきましたように、それらはあくまで、<映画の中>の、Pサルトルの描かれ方の話です(プリティ長嶋のつもりなのですが、古過ぎますかね。じゃプソイドでもパチモンでも、適当に)。
 それはともかく、いくら私が単純でも、このようなPサルトルの話から、<あのサルトル>の話に直結しようというような、短絡的な意図は持ち合わせておりませんのでお間違いなく。映画評の類は一切見ていませんが、もしかすると、映画を語りつつ、例えば小市民批判の限界性、欺瞞性などと、監督や<あのサルトル>に言い及んだりしている方がおられるかもしれません。別にそれは勝手ですが、小市民批判をいいながら小市民だ、と批判する夫子自身が小市民だ、などというこれまた私ももちろん小市民、といったループにならなければ幸いです。
 今日は<懐かしのあの二人組>尽くしでゆくことにしますが、例えば、「小市民(プチブル)」などといいだした有名な二人組にしてからが、一人は工場経営者つまりブルですし、あと一人は全く働かないプチブルそのもので、贅沢な暮らしではなかったにせよ、貴族出身の妻の他に家事をする女性がいる生活です。もちろんそれは、だからどうした、という話であって、だから全くどうでもありません。まあしかし、「マルクスエンゲルス」というリスペクト伝記映画を作るなら、その女性に手をつけたなどという格好悪いところはカットするか、あるいはそれなりの覚悟で別映画にするか、どちらかにしてもらった方が分かりやすかった。・・・いったのはそういうことです。パンチのシーンを入れたいなら、パーティー会場で有名作家にお見舞いするとか。
 とはいえ、何度か既に言及しておきましたが、生活や行動レベルでの反抗シーンというのなら、パーティーやプールを楽しむ二人より、爆死する「ベルモンドとカリーナ」の方が、あるいは殺される「P.フォンダとD.ホッパー」の方が、はるかにぶっ飛んで格好いいのは当たり前です。もちろん私たち小市民は、そういいながらソファーに座って彼らを観ているだけですが、もしもそういう態度まで欺瞞的だというなら、つい先日最後に使ったピストルが高額で競売にかけられたらしい「ボニーとクライド」や、P.ニューマンとR.レッドフォードがやった「ブッチとサンダンス」の後追いでもすればどうでしょうか。いやもちろん冗談ですが、つまり(もしそういうことばがお好みなら)およそ欺瞞的でない日常も人生もないのであって、爆死もせずに欺瞞的だというのは欺瞞的だ、ということも欺瞞的だ、と、またしてもループです。
 けれども、観客諸氏は大人ですから、格好いい疾走ドロップアウトにはラストシーンでの爆死で収支を合わせる一方、「ぶっ飛ばそうぜ」という声に、ナこといいながら爆死しないのは欺瞞的だなどと物言いを付けたり冷笑したり果ては抑え込んだりするような連中のことは、頭から信用しません。
 ひと頃、サバンナ高橋の(ですよね?)犬井ヒロシが「自由だ〜っ!」と叫んでいました。もとより人間は自由ではないが「自由だ〜っ」と叫ぶことはできる、というのが、あの芸のミソでした。小市民である私たちは、今は、ラーメンを食べる時に麺から食べるかダシから吸うかといった選択問題を前にして、「確かにそれは自由だヮ」などと笑っているだけですが、それでもいつか、もっと別の選択問題を思いつくかもしれません。少なくともそう思いたいものです。
 映画の最後で、彼は「ノーベル賞を辞退した」、そして彼女は「彼の墓の隣に眠っている」、と紹介されます。あの世界的な賞を辞退するとは、さすが「自由と反抗の作家」だ。互いに自由恋愛を認めながら墓の中まで信頼と愛を貫いたとは「自立する女」にふさわしい、すばらしいカップルだ。と、素直にリスペクトするのが「正解」なのです。
 辞退つったって既成権威に認められたからこそノミネートされたんじゃねえか、とか、結局墓かよ、などと、自分が何様かを忘れてスクリーンを越えて物言いをつけたりするのはバカというものです。え? お前のことだ? だから、それが誤解ですって。