漱石 1911年の頃 8:栄誉賞と博士号2

 文部省にも関りのある親友狩野享吉は、漱石が頑なになったのは行き違いからだという主旨のことをいっています。確かに、入院中に突然、「博士号をやるから明日10時に文部省に出頭せよ。または代理人を寄こせ」といってくるとは、傲慢甚だしい態度です。その上、辞退は認めないが不名誉な行為をしたら取り上げる、という規定だったらしいですからね。「夫ぢや學位をやるぞ、へい、學位を取上げるぞ、へい、と云ふ丈で、此方は丸で玩具同樣に見做されてゐるかの觀があります」(11.3.7.新聞寄稿)と、漱石が怒るのは無理がありません。
 けれども、それではもし何日も前から丁重な説明と打診があり依頼があったなら漱石は博士号を受けていたかというと、それはなかっただろうと思われます。
 大逆事件についてはどうでしょうか。松井長島への栄誉賞授与が思いつきの人気取り策に他ならないように、おそらく政府文部省の方には、大量死刑の武断政治臭を払拭するために文治懐柔策として文士への博士号授与を思いついた、ということはあったでしょう。また漱石の側にも、思想を支配すべく有無をいわさず大量死刑にした強権が、返す刀で文学を支配すべく強制的に博士号を授与しようとは何事か、といった思いも多分あったでしょう。けれども、では大逆事件がなかっなら漱石は博士号を受けていたかというと、それもおそらくなかったでしょう。
 前回終わりに引用した文部省局長宛の手紙、最後の部分をもう一度あげておきましょう。 
 最後に小生は目下我邦に於る學問文藝の兩界に通ずる趨勢に鑑みて、現今の博士制度は功少くして弊多き事を信ずる一人なる事を茲に言明致します。
 癇癪屋の漱石のことでもあり、大逆事件への怒りの上に無礼が重なって博士号を拒否した、といった明快なストーリーにしたいところではありますが、漱石が問題にしているのは、自分個人への高圧的な授賞態度ではなく、「博士制度」そのものです。いやさらに、漱石の拒否姿勢は博士号にとどまらず、もっと広く、国家権力による文芸の権威付けや統制支配全般に及ぶものでした。
 ちょうど博士号顛末のすぐ後、5月17日に、「文部大臣ノ監督ニ属シ」「委員長及委員ヲ以テ之ヲ組織ス」という文芸委員会官制が公布施行されると、漱石は翌日からすぐに、「文芸委員は何をするか」という文を3日間新聞に連載します。文士各人の責任による自由な相互批判ではなく、「国家を代表する政府の威信の下に」、何人かの文芸委員に文学批評の「最終最上の権威あるものと」世間に「誤解を抱かしむる」のは、「文芸の堕落」であり、文士がこんな委員になって「政府の力を藉りるのは卑怯の振舞」であって、余は、文芸院などは「その弊害の思ったよりも大いなる事を断言するに憚らぬものである」、と。
 だんだん文が冗長になり、また面倒にもなってきましたので(^o^)、いちいち引用はしないことにしますが、なお3点だけ、簡単に記しておきます。
 第1に、漱石は、博士制度や今見た文芸院に対してだけでなく、いわゆる文展(文部省美術展覧会)に対しても、さらに外国のロイヤルアカデミーの類に対しても、官製の芸術組織に対してことあるごとに何度も批判をしています。
 第2に、時期的にも、漱石の博士制度への批判姿勢は今に始まったものではありません。すでに留学時代にも、女中のお梅さんの「博士になつて早く御帰りなさい」ということばに対して、妻への手紙で書いています。「博士になるとはだれが申した。博士なんかは馬鹿々々敷、博士なんかを有難がる様ではだめだ」、と。(続く)