漱石 1911年の頃 13:是公と三山1

 最近は、このブログに似合わぬ真面目風??で、読んで下さっている方々にとっても、面白くはないでしょうが、私自身も飽きてきました。多分そのうち放棄するかもしれませんが、もう少しは続けます。
 さて、漱石にとって大逆事件とは、ということですが、しかし一体、幸徳秋水とは世間的には何者だったのでしょうか。例えば渡良瀬川流域の農民とかだけでなく、天皇のお膝元でも、急増する腰弁や細民が電車を止めたりといった騒動を起こし、貧民の騒動に旗を振る彼ら「主義者」の言動に官憲がやたら神経を尖らせているといったことは、前にも触れましたが漱石ももちろん新聞などで見聞きしています。鴎外さえかねてから知識を仕入れていた社会主義に、あるいは直接行動を掲げる無政府主義に、漱石はどれほどかの関心をもっていたのか、その辺りのことは私は知りませんが。いや、鴎外は高級官吏として体制維持に対する責任感情をもっていましたから「さえ」ということはないですね。ともかく漱石を含め、世の中に一家言を持とうかという人で、「主義」や「主義者」の動向に無関心な人はいないでしょう。が、世間の人々は、「主義」が分かって主義者を見るのではなく、むしろ様々な社会問題でオカミに楯突く目立った言動を通して「主義者」たちを見ていた筈です。それでいえば、幸徳の晩年、といっても痛ましいことに僅か40年の生涯さえ許されなかったのですが、その晩年は、世間的にはやはり、日露戦争の開戦から講和までという巨大な出来事で色づけされた時代だったでしょう。
 そんな時代、世間の熱狂と対照的だった幸徳らの非戦論は、どの程度目立っていたのでしょうか。少なくとも諸新聞の紙面でも、はじめは、眠れる獅子清国とは違って列強の一翼を担う北の白熊大国が相手ですから、臥薪嘗胆といえども慎重論も多かったようですが、それでも、イギリスが結構強力に背を支えアメリカで資金も調達できるというようなことで、たちまち世論、新聞は開戦論に雪崩れ込んでゆき、ついには萬朝報さえもが黒岩社主が開戦論に踏み切ります。そんな中、ご承知のように幸徳らは、世の風潮に断然背いて、非戦の旗を降ろさず社外に飛び出し、露国社会党に激烈連帯のエールを送ったのですが。
 と、何故そんな新聞動向をおさらいしたのかというと、彼ら非戦論と真っ向対立するいわゆる主戦論、開戦論の代表的な論客、池辺三山のことです。この三山、池辺吉太郎は、東京朝日の主筆として、日露戦争前夜から、主戦論の急先鋒を勤め、筆だけではなく政治工作にまで手を出したようです。一方漱石は、最初に触れたように、広田先生という登場人物に、日露戦争に勝って一等国になったつもりでいても、日本はダメだね、滅びるね、といわせます。三山のような人物にいっている台詞のようにも聞こえますが、そう簡単ではありません。
 前に、漱石にとっての06年を保留にした、その保留はまだそのままにしておきますが、教師という仕事に嫌気をさした漱石に格別の条件を提示して、翌年早々朝日に引っ張ったのが、この池辺三山でした。漱石は三山の期待に応えて次々と作品を朝日に連載してゆき、三山も、修善寺大患でも漱石への援助を惜しみません。以後二人の信頼関係は堅く、この年11年秋三山が、漱石に関連のある文芸欄問題をきっかけに社内抗争が激化して朝日新聞社を辞職することになると、漱石は自らも共に朝日を辞めようとした程でした。
 もちろん、漱石の三山への信頼は、文芸に理解が深く漱石を評価し高く期待してくれたからであって、日露戦争への姿勢は別次元の事柄です。また、時代の展開の中で三山の姿勢も変化はします。けれども、そうはいっても、10年11年という時代を画する事件のひとつであった大逆事件を前にして、代表的な非戦論者だった幸徳秋水と代表的な主戦論者だった池辺三山とを図式的に対比した上で漱石の立ち位置を測ると、微妙な感がしなくありません。
 などと書きましたが、漱石は「従軍行」という戦争詩を書いて得意になっていたりもするのです。(続く)