漱石 1911年の頃 9:栄誉賞と博士号3

 乗りかかった船で、第3です。
 例えば文芸委員会に対する批判は、もちろん先ず、制度を作った文部当局に向かけられ、さらには、その手先になって政府の威を借りようという文芸委員に向けられます。けれども漱石は、一般文芸家も、さらには一般読者も見逃しません。
 例えば、文科省のHPで見ることのできる『学制百年史』の一章「芸術文化の行政」にも、問題の11年文芸委員会設置と同時に、図書幻燈映画レコードなど「国民に対する娯楽指導」がスタートしたと書かれています。ここから、例えばR禁にみられるような、統制か自主規制かという、今に続く問題が始まるのですが、統制を「娯楽指導」という文部省は、文芸委員会制度にしても、文芸の「保護育成、奨励」といったことを建前として発足させるのですね。そこで漱石は、前述の文でいいます。こんな弊害だらけの制度は不要だ、文芸委員になろうなんて堕落だ卑怯だ、しかし、大体おカミに保護育成とか奨励とかいわせるのは、「今の日本の文芸家」がダメだからだ、と。保護育成や奨励は必要だが、それなら文芸家自身が、政府から独立した「文芸組合または作家団というような組織」を作って自主的にやればよい。ところが「日本の文芸家」は、「作家(オーソース)倶楽部(クラブ)というほどの単純な組織すらも構成し得ない卑力な徒である事を思えば、政府の計画した文芸院の優に成立するのも無理はないかも知れぬ」。
 ちなみに、いわゆるペンクラブも、多くの作家が抗議脱退を繰り返す振幅の激しい戦後の歴史は別として、1935年にできた際、国際ペンクラブから外務省経由の呼びかけがあってスタートしたそうですね。これは横道。
 さて、こうして、文部官僚の支配がけしからん、文芸家が委員になってどうする、一般文芸家もだらしない、ということなのですが、さらにもうひとつ、一般読者もだめだと漱石はいうのです。あるいは、これが一番問題なのかもしれません。引用しないといったのですが、これは息づかいまで含めて聞いて頂きたいので、申し訳けありませんが、引用します。和歌山講演に先立つ明石講演11.8.13.「道楽と職業」の一節です。
  〜今の学者は自分の研究以外には何も知らない(のです。ただ)〜すべてを知らない代りに一カ所か二カ所人より知っていることがある。そうして生活の時間をただその方面にばかり使ったものだから、完全な人間をますます遠ざかって、実に突飛なものになり終せてしまいました。私ばかりではない、かの博士とか何とか云うものも同様であります。あなた方は博士と云うと諸事万端人間いっさい天地宇宙の事を皆知っているように思うかも知れないが全くその反対で(す)。〜
 それだから私は博士を断りました。しかしあなた方は――手を叩いたって駄目です。現に博士という名にごまかされているのだから駄目です。例えば明石なら明石に医学博士が開業する、片方に医学士があるとする。そうすると医学博士の方へ行くでしょう。いくら手を叩いたって仕方がない、ごまかされるのです。

 目に見えるようですね。目の前の文豪が「だから私は博士を断りました」といったとき、聴衆はドッと笑って拍手したのでしょう。「そんなもんもろたら立ちションでけへんからね。だから国民栄誉賞断ったんですわ」。
 というわけで、漱石は、文部官僚も文芸委員も一般文士も一般読者もダメだというのでした。・・・と書いて、ここで重要なことに気付きます。
 「小生は今日迄たゞの夏目なにがしとして世を渡つて參りましたし、是から先も矢張りたゞの夏目なにがしで暮したい希望を持つて居ります。從つて私は博士の學位を頂きたくないのであります」、という漱石の辞退は、「自分は夏目某という市井の文士であり、博士などになって自らを権威あるものと勘違いしてしまいたくない」といった、自己への戒めの類から出たものでは全くなかった、ということです。
 06.10.22.森田草平宛書簡には、こうあります。
 功業は百歳の後に価値が定まる。百年の後百の博士は土と化し千の教授も泥と変ずべし。余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲するの野心家なり。〜 余は隣り近所の賞賛を求めず天下の信仰を求む。天下の信仰を求めず後世の崇拝を期す。此希望あるとき余は始めて余の偉大なるを感ず。
 百千の博士教授が土と化し泥と変じても、自分は「百代の後に」残る文章家たらん、という強烈な自負。
 そうすると、先に(事件と革命2)見た、「僕は打死をする覚悟である」、あるいは「ハリツケの上から下を見て、此馬鹿野郎と心のうちで軽蔑して死んで見たい」「絞罪位な所でいゝなら、進んで願ひたい」といったことばも、安直に大逆事件に線を引くのではなく、別の文脈で読むべきらしいということに気づきます。それらのことばは、上記森田宛書簡と同じ06年のものであり、特に「打死をする覚悟」というそれは、翌10.23.の日付!なのですから。
 ではその1906年とは、となるのですが、それはしかし保留にして、一旦元の道に戻りましょう。(続く)