漱石 1911年の頃 7:栄誉賞と博士号1

 最初1日付け読売新聞の見出しで見たので、品のないエイプリルフール記事だと失笑したのですが、何とホントだったとは。松井長島の栄誉賞のことです。というわけで、ちょっと横道。
 今回の巨人ペア授賞については、裏で例のボスが動いていたのかどうかは分かりませんが、表面的には新幹線内で、首相が思いついたと報じられています。参院選で勝つまではとにかく世間を刺激せず、外交でも内政でも口当たりのいいことだけを表に出して、高人気を維持する作戦から出た、人気取りミエミエの授賞です。
 王の世界記録から始まったこの賞は、建前として、スポーツ選手の場合、前人未踏、不世出の記録への「国民」の賞賛を基にしている筈でしょう。ところが、プロ野球の歴代個人記録を見ると、通算、年間、1試合の記録、合わせて打者部門70ほどのどこにも、長島の名前などありません。一方、三冠王3回の落合、400勝の金田、連続試合フルイニング出場世界記録の金本などなどは、置き去りです。ミスターとか呼ばれてはいても、3流とはいいませんが実力2流。翌日の新聞の授賞記事でも、「キャラクター」とか「人気」ということばしか使えないわけです。
 実力超1流のイチローは2度辞退し(彼の場合は引退の時点で受賞するかもしれませんが)、生涯通算盗塁をはじめとする多くの前人未踏の記録をもつ福本豊は、「そんなものもらうと、立ちションもできへん」と、首相の打診を蹴飛ばしました。ど素人の政治家が上から目線でヤルといえば誰もが大喜びすると思っているのか、その了見が気にくわない。ということなのではないでしょうか。・・・少なくとも漱石は、そうして博士号を拒否したのでした。
 大逆事件死刑執行の1か月後、まだ入院中だった漱石の自宅に、突如、文部省から、「前文句無しの打突け書で突然」、翌「二十一日午前十時同省に於て學位授與相成候條同刻までに通常服云々」と書かれた通知が届きます。
 怒った漱石は、すぐさま文部省の福原專門學務局長宛に、手紙を出します。
 拜啓昨二十日夜十時頃私留守宅へ(私は目下表記の處に入院中)本日午前十時學位を授與するから出頭しろと云ふ御通知が參つたさうであります。留守宅のものは今朝電話で主人は病氣で出頭しかねる旨を御答へして置いたと申して參りました。
 〜小生は今日迄たゞの夏目なにがしとして世を渡つて參りましたし、是から先も矢張りたゞの夏目なにがしで暮したい希望を持つて居ります。從つて私は博士の學位を頂きたくないのであります。此際御迷惑を掛けたり御面倒を願つたりするのは不本意でありますが右の次第故學位授與の儀は御辭退致したいと思ひます。宜敷御取計を願ひます。敬具

 しかし、これでは終わりません。11.2.24の新聞に、漱石は顛末を書いています。
 すると私の辭退の手紙と行違に、其晩文部省から──ヱヽと證書と言ひますか、何と言ひますか──學位を授與すると云ふ證書を、〜 宅の方へ屆けて呉れたのです。夫は早速福原さんの手許迄返させました。
 で、そのままになっていたところ、再び、動きがあります。4月11日になって、文部省に関係の深かった帝大教授上田萬年らの来訪打診があり、午後に專門學務局長が來て、互いの見解の相違を確認して別れたのですが、ところが翌12日に至つて、福原局長から手紙と共に証書が差し戻されてきます。「復啓。二月二十一日付を以て學位授與の儀御辭退相成度趣御申出相成候處、已に發令濟につき今更御辭退の途も無之候間、御了知相成度。大臣の命により、別紙學位記御返付旁此段申進候。敬具」。
 辞退を認めないというのですから、これは漱石ならずともカチンときます。漱石は再度、11.4.13.付けで手紙を書いて、証書を返送します。
 拜啓。學位辭退の儀は既に發令後の申出にかゝる故、小生の希望通り取計ひかねる旨の御返書を領し、再應の御答を致します。
 小生は學位授與の御通知に接したる故に、辭退の儀を申し出でたのであります。夫より以前に辭退する必要もなく、又辭退する能力もないものと御考へにならん事を希望致します。〜 毫も小生の意志を眼中に置く事なく、一圖に辭退し得ずと定められたる文部大臣に對し、小生は不快の念を抱くものなる事を茲に言明致します。
 文部大臣が文部大臣の意見として小生を學位あるものと御認めになるのは已を得ぬ事とするも、小生は學位令の解釋上、小生の意思に逆つて、御受けをする義務を有せざる事を茲に言明致します。
 最後に小生は目下我邦に於る學問文藝の兩界に通ずる趨勢に鑑みて、現今の博士制度功少くして弊多き事を信ずる一人なる事を茲に言明致します
 右大臣に御傳へを願ひます。學位記は再應御手元迄御返付致します。敬具

(続く)