漱石 1911年の頃 28:何かと何か1

 世の中には理不尽なことが既に余りにも多いのに、その上さらに次々と理不尽なことが起こります。駄文はそろそろ終わりにしましょう。
 寄り道ばかりしてきましたが、出発点は、単純なことでした(→念のため、こちらです)漱石が1911年に和歌山でした「現代日本の開化」という講演は、漱石にとっても当時の思想状況にとっても、かなり重要なものとされているようですが、なぜ漱石は、そんな重要な講演を、他ならぬ和歌山でしたのでしょうか。
 和歌山は「大逆犯」を最も多く出した県ですが、漱石は事件に対して特に強い関心を持っていたとは見えず、幸徳らを処刑して「現代日本の開化」を強引に進める強権に対して、本格的に楯突く気があったようにも見えません。また、和歌山旅行では、「現代日本の開化」の象徴ともいうべき食堂車や巨大エレベーターに乗り、どちらにも感心しませんが、かといって破壊や変化を特に嘆く風でもなく、開発を推進する地方名士とも歓談します。
 もちろん結果的には、和歌山の地は「行人」の重要な舞台となり、講演地和歌山と宿泊地和歌浦の間で激しい台風に襲われた経験も、小説の中で実に効果的に使われます。が、そのような舞台としての意味を越えて、漱石が、この南海の都市に対して特別の意味や思い入れをもっていたということを証明するのは、かなり難しそうです。
 ただし、はじめから書いているように、本駄文でも、たまたま寄り道の途中で漱石の作品にもいくつか触れはしましたが、いわゆる作品論の類や、従ってまた総体としての作家漱石論などをするつもりも資格も全くありません(大体、その類の本など読んではいませんし(^o^))。もちろんまた、個人主義とか則天去私とかいった話などにも全く無縁です。だから例えば、評論者や研究者の方々の中に、明示的証拠はなくても漱石大逆事件には同時代に通底する強い思想的関連性が見られる、といった指摘をされる方が万一いたとしても、異議を述べるつもりは毛頭ありません。 
 と、いわずもがなのことを改めてくり返したのは、最後にもうひとつだけ、意地悪ついでに問うてみようかと思ったからです。そもそも例の講演は、ほんとに「重要な」講演だったのでしょうか。論者や研究者の方々から見て、ではなく、その講演をじかに聞いた聴衆から見て、そして漱石自身から見て、どうだったのでしょうか。
 「現代日本の開化」の冒頭から、漱石はこう口火を切っています。
 「はなはだお暑いことで、こう暑くては多人数お寄合いになって演説などお聴きになるのは定めしお苦しいだろうと思います。」
 朝日がどうしてこの暑い時期に講演会を企画したのか、お盆あけで人を集めやすかったのか、講演者たちの都合だったのか、とにかく事実上の夏の盛りで、しかも今と違って冷房も何もない会場に、ぎっしり聴衆が詰めかけているのですから、たまったものじゃありません。大聴衆相手にマイクなしで話す方も大変でしょうが、聞く方も実に大変だったでしょう。
 その上、他に演者をつとめた新聞記者のように満州樺太についての興味深い話などだったらまだしもですが、漱石のような「固い」話を、汗たらたらで聞くのは、大げさにいえば、半分苦行だったものと思れます。
 「ことに承れば昨日も何か演説会があったそうで、そう同じ催しが続いてはいくらあたらない保証のあるものでも多少は流行過の気味で、お聴きになるのもよほど御困難だろうと御察し申します。」
 「この暑いのにそう長くやっては何だか脳貧血でも起しそうで危険ですからできるだけ縮めてさっさと片づけますから、その間は帰らずに、暑くても我慢をして、終った時に拍手喝采をして、そうしてめでたく閉会をして下さい」。

 もちろん、和歌山だけのことではありません。例えば最後の大阪会場でも、この猛暑の中、自分の話は面白くないに違いないと、最初から諦めています。 
 「実際この暑いのにこうお集まりになって、竹の皮へ包んだ寿司のように押し合っていてはたまりますまい。〜不運と諦めて辛抱して聴いていただきたい」。
 「〜これほど御集りになった諸君の御厚意に対してもなるべく御満足の行くように、十分面白い講演をして帰りたいのは山々であるけれども、しかしあまり大勢お出になったから――と云って、けっしてつまらぬ演説をわざわざしようなどという悪意は毛頭無いのですけれども、まあなるべく短かく切上げる事にして、そうして――まだ後にも面白いのがだいぶありますから、その方で埋め合せをして、まず数でコナすようなことにしようと思う。」

 実際、ほとんどの聴衆は、有名作家の顔を見られたのはいいとしても、漱石の固い講演内容を熱中症寸前の頭で理解するだけでも大変で、その思想史的「重要」性を判定するゆとりなどなかったことでしょう。
 では、聴衆ではなく、講演者漱石自身にとってはどうだったでしょうか。漱石は、特に和歌山での講演を「重要」なものと意識していたのでしょうか。
 最初に触れましたが、(→ここ)、11.7.26.長谷川如是閑宛書簡で、
 「〜和歌山などはまだ行った事がないから、どうか其方へ向けて頂き度候」
 と書いた後に、こういっています。
 「〜纏つた事を云ふには少し時間がかゝり候。〜 講演は二三種こしらへる積に候。必要なればそれを繰返してよきや、それから先達やつた「文芸と教育」という奴を、どこかで繰り返しても宜しきや。〜土地及び聴衆の種類などにて出来る丈斟酌致し度心得に候故、場所及び会衆の性質など、早く分かれば好都合に候。」
 「先達やった「文芸と教育」」というのは6月の長野講演ですが(→ここ)、つまり漱石は、この日から2週間ほどの間に、関西講演4ヵ所分の原稿メモを、まとめてこしらえたことになります。その際、仮にその中のひとつを「重要な」話だと考えたとしても、わざわざそれを2番目にしようといった考慮があったのかどうか。
 それより、もしかするとと思われるのは、「場所及び会衆の性質など、早く分かれば好都合に候」という希望についてです。前回、和歌浦保全か開発かという問題を取り上げましたが、駄文では既に最初の方で、旅館の予約に関連してその問題に触れています(→ここ)。もちろん全くの想像ながら、上記の書簡に対して、こんな返事があったかもしれません。「拝復。御講演地として和歌山をご希望の由承り候段会場及び日程につき調整手配致す所存にて候。尚宿は弊社主筆和歌浦芦辺屋別館を強く推挙致し居候。古歌そのままの干潟の先に名草山紀三井寺を遠望する風雅が殊の外との由。但し昨今古代以来の名所和歌浦にも「現代日本の開化」の波が急激に押し寄せ東洋一と称する野外エレベーターが建てられる等風景も大いに変化しつつあると聞及び候。〜」
 もちろん、全くいい加減な手紙ですが、ともかく和歌浦開発論争の噂を聞き、それを「斟酌」して和歌山での演題を決めた、ということは、あったかもしれません。
 ただ、そうだとしても、その「現代日本の開化」という演題が、当時の漱石にとって「重要な」関心事だったのかどうかは別問題です。
 こんなことをいっています。
 「全くのところ今日の講演は長時間諸君に対して御話をする材料が不足のような気がしてならなかったから、漱石の前に演壇に立った)牧さんにあなたの方は少しは伸ばせますかと聞いたのです。すると牧君は自分の方は伸ばせば幾らでも伸びると気丈夫な返事をしてくれたので、たちまち親船に乗ったような心持になって、それじゃア少し伸ばしていただきたいと頼んでおきました。」
 少なくとも、「重要」な演題だから、格別力を入れ、時間をかけて話そうという姿勢ではなかったようです。(続く)