漱石 1911年の頃 31:意識と波1

 有名な漱石の「現代日本の開化」は、近代の日本思想史を考える際に重要な講演だ、と考えてきた人は少なくないと思います。というか、実は私もその口ですが。
 しかし、いつもながらへそ曲がりで恐縮ですが、「文豪夏目漱石が話した」というプレミアムをはずしても、ほんとにそうなのでしょうか。
 この講演で漱石は、外国人に富士山があると威張る「馬鹿」や、一等国になったと急に威張り出した「高慢」で「気楽」な連中に冷や水を浴びせはします。けれども彼は、「現代日本の開化」から、封建時代の「圧迫を脱した」ことをはずし、その後に成立した「現代日本」が、それ以上の「圧迫」強権となって、国内に「時代閉塞」を、国外に植民地支配をもたらしたことににも触れません。
 「現代日本の開化」は、都市に多くの貧民を作り出し、農村に多くの貧農を作り出します。しかし、開化によって「氣息奄々として今や路傍に呻吟しつゝある」と漱石がいうのは、それら「日本の下層社会」の人々のことではなく、ましてや植民地の人々でもありません。では、誰かというと、一般庶民とは縁の遠い「学者」、それも自分のことです。
 外発的開化の時代に、「大学の教授を十年間一生懸命にやったら、たいていの者は神経衰弱に罹り」ます。嘘だと思うなら、私の10年をご覧なさい。1893年、英語担当教師になった当初から日本人が英文学を学ぶことに違和感を感じて神経衰弱に罹り、英国留学でなれない異国生活と思うに任せない英文学研究のストレスで猛烈な神経衰弱に陥り、1903年に帰国するが精神衰弱やまず。・・・これが私の10年です。「発狂せり」などといった奴までいますが、何をいうか、神経衰弱も癇癪もDVも、全て私のせいぢゃない。「外発的開化」のせいです。学問をして「ピンピンしている」ような学者は皆「嘘の学者」であって、私こそがホントの学者なんです・・・といっているように聞こえます。いや、実際そういってるのでしょう。
 さてしかし、そこを、自己弁護ではなく一般的な話のように思わせているのが、「波」の比喩です。
 先ず、少し引用します。長くならないように、つまみ読みですが、
 「我々の心は絶間なく動いて居る。〜これを意識と云ふのであります。
 此意識の一部分〜を絶間なく動いてゐる大きな意識から切り取つて調べて見ると矢張り動いてゐる。

 其動き方は別に私が發明した譯でも何でもない、只西洋の學者が書物に書いた通りを尤と思ふから紹介するだけでありますが、〜(意識は)固定したものではない。必ず動く。其高低を線で示せば〜弓形の曲線で示さなければならなくなる。〜本を讀むにしてもAと云ふ言葉とBと云ふ言葉と夫からCと云ふ言葉が順々に竝んで居れば〜Aが明かに頭に映る時はBはまだ意識に上らない。Bが意識の舞臺に上り始める時にはもうAの方は薄ぼんやりして段々識域の方に近づいてくる。BからCへ移るときは是と同じ所作を繰返すに過ぎないのだから、いくら例を長くしても同じ事であります。
 是は極めて短時間の意識を學者が解剖して吾々に示したものであります〜」

 ここで漱石は、内発的に意識の解明をするのではなく、「只西洋の學者が書物に書いた通りを尤と思ふから紹介するだけ」と、外発的な態度ですが、それはともかく、この「西洋の学者」の名前を漱石はあげていませんが、W.ジェームズです。ジェームズの小論「意識の流れ」の挿図を右に貼り付けておきましたので、一目瞭然でしょう。
 なお、漱石がジェームズを熱心に読んでいたことは、「思い出すことども」という文章に詳しく書かれています。奥方との会話など面白いので、ちょっと長めになって恐縮ですが、これも引用しましょうか。
 「ジェームス教授の訃に接したのは長与院長の死を耳にした明日の朝である。
 教授の最後の著書「多元的宇宙」を読み出したのは今年(1910年)の夏の事である。修善寺へ立つとき、向へ持って行って読み残した分を片付けようと思って、それを五六巻の書物とともに鞄の中に入れた。
 〜病牀にありながら、三たび教授の多元的宇宙を取り上げたのは、教授が死んでから幾日目になるだろう。今から顧みると当時の余は恐ろしく衰弱していた。仰向に寝て、両方の肘を蒲団に支えて、あのくらいの本を持ち応えているのにずいぶんと骨が折れた。五分と経たないうちに、貧血の結果手が麻痺れるので、持ち直して見たり、甲を撫でて見たりした。けれども頭は比較的疲れていなかったと見えて、書いてある事は苦もなく会得ができた。 
 〜嬉しいので、妻を呼んで、身体の割に頭は丈夫なものだねと云って訳を話すと、妻がいったいあなたの頭は丈夫過ぎます。あの危篤かった二三日の間などは取り扱い悪くて大変弱らせられましたと答えた。 
 多元的宇宙は約半分ほど残っていたのを、三日ばかりで面白く読み了った。〜ことに教授が仏蘭西の学者ベルグソンの説を紹介する辺りを、坂に車を転がすような勢で馳け抜けたのは、まだ血液の充分に通いもせぬ余の頭に取って、どのくらい嬉しかったか分らない。余が教授の文章にいたく推服したのはこの時である。」

 修善寺で、生死の岸から引き返したすぐ後に読んだのがジェームズだったようですね。
 ちなみに、ベルクソンも出てきますが、関西講演のすぐ前に、漱石はしきりにベルクソンを読んでいたようです(今はベル<ク>ソンと書くようで、以下<ク><グ>が混じっています)。「昨日ベルグソンを読み出して「数」の篇に至つたら六づかしいが面白い、もっと読みたいが今日は講演の頭をとゝのへる都合があつて見合せる」(11.6.28.日記)。「ベルグソンの「時間」と「空間」の論をよむ。」(11.7.1.同)。
 余計なことですが、この時期は、ベルクソンがえらく流行った時期に当たります。関連書や論文はたくさんありますが、ベルクソンの名が入ったものだけ挙げておきます。
 10 西田幾多郎ベルグソンの哲學的方法論」
 11 西田幾多郎ベルグソンの純粋持続」=「ベルグソンの思想に於て最も特色のあるもので、かねて氏の哲學の根柢となつて居るものは純粹持續dure'e pureの考であると思ふ。 〜ベルグソンは一切の獨斷を除き盡して深く經驗其者の眞相に到達せんとした、かくして補足し來つたものが純粹持續の考である」。
 13 中沢臨川「ジェームズよりベルグソン
    ベルグソン金子桂井訳「創造的進化」
 14 ベルグソン高橋里美訳「物質と記憶
 16 大杉栄ベルグソンとソレル」=「二三年前から引続いて、日本の一般学術思想界殊に経済学会と文壇思想界とに、一種の流行ともいう事が出来るほど、多大の注意を喚びもしくは多大の影響を及ぼした二つの学説がある。その一つは、最初は文壇思想界を風靡して、後には経済学会にまでその影響を及ぼした、ベルグソンのいわゆる創造的進化論である。他の一つは、〜ソレルのいわゆるセンディカリスムである。」
 何故この時期にベルクソンが流行ったのかということは、かなり興味深い問題ですが、横道にしては先が広すぎますので、先へは行かずに戻ります。(続く)