消えた「移民」2

 移民を要請したブラジル側が、もともと奴隷の代わりが欲しかったのだということいついては既に述べましたが、一方、そんな「困窮生活、苛酷労働」が予想される所に何故行ったのか、また送ったのか、というと、それはこちらで既に「困窮生活、苛酷労働」の人々がいたからです。榎本を真似ていえば、「近来わが国の人口は年々繁殖する一方であるのに、国内にはその生活を支えるに足る産業が乏しい。特に日露戦後の不況で国内生計の途は日に益々壅塞する一方で、今や移民の募集に応ぜんとする者が四方に起っている(ちなみに、「壅塞」というのは「ようそく」とよんで「ふさがること」だそうです)。ところが海外出稼の要地たるハワイには最早余地なく、対岸の米国やカナダや中米では此等貧民の為めに既に其の門戸を鎖しつつある」。というわけで応募した人々からすれば、「生計の途益々壅塞」して切羽詰まった大陸行きであり、退路のない賭けだったのでしょう。
 けれども、「成功物語」では、行く前の「壅塞」状態はあまり触れないのが人情で、例えば各地にある集団移民で有名な村や集落についても、その村落が特に「壅塞」だった事情について詳しく研究されるよりも、その村落に出た「先駆者」の「進取の志」で歴史が物語られるのはやむをえません。
 次にまた、行ってからの「困窮労苦」についても、よく似た事情があります。「成功者」の回顧談や保存資料に依拠する限り、それら初期に困苦は、われら日系人たちがいかに苛酷な状況からスタートし、それらを乗り越えて今に至ったかという「苦労成功物語」の中に位置づけられて語られるのはやむをえません。
 しかし、全ての困苦が成功に至るとは限りません。(元年者のように全員逃亡ということはないにしても)毎回かなりの高率で、病没や離散や逃亡や反抗やその他様々な理由によって、仲間から脱落してゆく人が出た筈ですが、成功物語とすれば、それらの事例にはあまり触れたくないのは人情として理解できます。
 植民会社の事業を認可し補助金を出して「国策」として送り出した政府の思惑は、貧民、窮民をその「壅塞」から解放し新天地での「成功」を期する、という善意のものではあったでしょう(救貧福祉対策の半面は治安対策であるということも含めて)。しかし送り出したその先は、今のことばでいえば「自己責任」であって、それが「移民は棄民」という、当時からいわれたらしいことばの意味になります。 
 自身ブラジルに移住した映像作家岡村淳の本によれば、深い森に逃げて暮らす家族の中には、思春期を迎えた娘が全裸で母も腰にだけ襤褸の名残をつけた「猿の生活」に追いやられた人々もいたらしく、そんな家族も何らかの回路を通って「成功者」とはいわないまでも「人の生活」に戻れたと信じたいものですが、中にはそのまま森に消えていった人もいたでしょう。もちろん、以上で使ってきたような「成功者」とは全く別の形で、逞しく自分の道を切り開いて行った人たちもいるわけですが、どちら側にも、普通の「成功物語」から外れた人々の記録は、私のように、岡村作品などには無縁で、たまたま「活躍する日系人」的なテレビ番組を漠然と見たり、たまたま移民記念館や記念展をのぞいたりするだけの凡人には、見えないままです。(続く)