三木清:獄死前後1

 (ちょっと必要があるので、ベラスケスは中断して、ここにメモを書いてゆくことにします。)
 1945年9月30日の朝日新聞1面の下段片隅に、小さい記事が出ます(新字新かなに変更)。
 ●「三木清(評論家)二十六日午後三時豊多摩拘置所で急性腎臓炎で死去した。享年四十九、兵庫県出身、三高講師を経て独仏に留学、帰朝後法大教授 著書には歴史哲学その他あり、告別式は三日午前十時から十一時まで杉並区高円寺四ノ五三九の自宅で行ふ」
 近くの図書館で縮刷版が見られたのは朝日だけですが、朝日の記事はいわゆる死亡記事で、この日は3名、元高級官僚13行、元東京市元助役8行の後に三木清8行が置かれています。このことは、この時点では、記者、デスクひいては新聞社は、三木の獄死を、特に取り上げるようなニュースではないと判断したことを示しています。
 ちなみに、昨今では、首相をはじめとして、戦争がどういうものであったか、戦争中の日本軍がどういうものであったかを忘れ、いな知ろうとせずに、戦争ができる国に戻そうとする輩が大きい顔をしています。上記の記事が出た日の紙面から、もうひとつ、記事を紹介します。
 ●「虐殺将兵に逮捕命令 連合軍最高司令官は第八軍に対して、一九四四年十二月十四日比島パラワン島における連合軍俘虜虐殺に参加したと推定される三十四名の日本軍将校、兵士の逮捕を指令した、当日百名以上の連合軍は群をなして防空壕の中に押し込められ、ガソリン・バケツと松明で火をつけられたものである。防空壕から逃れ出た人々は、機関銃と手榴弾或いは銃剣で薙倒された(後略)」