自然に死ぬ6

 もとより人はいずれ死ぬし、長く生きることがいいともいえません。戦争などなどで「早すぎる」死を強いられたりせずに、それぞれの時代や社会で「まあこんなものだろう」と思われる時期の前後まで生きた老人には、世間は、「まあそんなものでしょう」という扱いをしてきたわけです。そのことは、もちろん昔も今も基本的に変わりません。
 ただ、本来全ての治療は延命を目的としている筈ですが、老人の場合だけ「延命治療」ということばを使い、しかも、それもやめるのが「自然な死」だというテレビ番組をたまたま見たもので、最近はそんなものかと思ったわけです。
 で、夏の間、新聞記事に注意もしていたところ、結構特集などがあり、「老人の場合、肺炎で死ぬといっても「自然に死ぬ」最終段階がたまたま肺炎だということが多く、治療しないという選択肢もある」とか、あるいはまた、「老人には抗がん剤などは使わず「自然に死ぬ」のを静かに待つのがむしろよい」などと、えらい医師が紙面で話したり書いたりしています。私が気が付かなかっただけで、最近は、何もしないのが「自然」で治療は「不自然」という了解形成の方向に、世間を誘導してゆく道ができつつあるようです。
 もちろん、冒頭にも書いたように、基本は昔から同じです。同じですが、以前は、そういう「身も蓋もない」いい方には、今風にいえばポリティカル・コレクトネスというか、世間智がブレーキをかけていたような気がするのですが、どうなのでしょうか。少子化社会で介護医療への負担が人的にも財政的にも大変になり、余裕がなくなって来たということなのかもしれません。
 でまあ、あるいはそういうことだとして、その身も蓋もなさをごまかすのに利用されるのが、「私の意向」というもののようです。
 番組でも記事でも、必ず保留がつきます。「治療しない方が「自然」なのだが、もし本人が、それでも「治療する」「継続する」を望む場合には、もちろん、治療が保証されなければならない」、と。いいかえれば、<老人だから>という理由だけで「自然な死」を強いるのではなく、<本人が望まないなら>「不自然な生」は強制しない、ということだ、と。またいいかえれば、社会的負担のためにではなく、本人のために、「自然の死」を推奨するのだ、と。
 なるほど・・・それなら問題ない。「本人の意向」を何より優先する、結構な配慮のように思えます。
 しかし、どうでしょうか。
 今私たちが、社会的負担がかかる老人には「自然な死」を「自ら望んでもらいたい」と考えはじめているとすれば、あるいはそう考えるように誘導されようとしているのだとすれば、「社会的負担がかかる人々」は病気の老人に限られないことを、覚悟しておいた方がよいかもしれません。
 もしかすると、いま開かれようとしているのは、老人に限らず、病人に限らず、「生きる」ことを許せば社会的負担になると見なされた人々を、「本人が望む」という所に誘導しさえすれば、「自然の死」として処理してよろしいという未来社会の、最初の一歩なのかもしれません。まさか?(続く)