自然に死ぬ11

 ということで、どうということのないお話でしたが、最初に戻ります。
 「ムダにこれ以上お金を使って頂くのは心苦しい限りです。これ以上ご厄介をおかけするのは申し訳けなく・・・」。「そういういい方をされると、私たちが無理強いしているように思われます。そうではありません。でも、自然な死が自然ですよ。・・・では、それでいいですね。無理はやめて自然にしましょうね」。ボディブローによって、「本人の意思」が(たぶん厚生官僚の方々の)思うところに誘導されました。めでたしめでたし。
 ところがしかし、中には、「厄介はかけない」、という人もいます。
 実は、前回、ご老人の投書を取り上げ、自分から老人医療を制限してはどうかという、「大変健気というか謙虚というか、ありがたいご意見で」、と書いたのですが、ほんとは少し、あるいは大いに、違っています。
 投書の主旨は、「ある年齢以上の老人には治療しなくていいのではないか」、ではなくて、「ある年齢以上の老人医療は、自由診療にすべきではないか」、ということです。つまり、老人に税金や公的保険を使うのは打ち切ってよい、ということですね。つまり、こうです。貧乏な老人には、ムダな金はかけずに、「自然な死」を「自ら望んで」迎えていただけばよろしい。金のある老人は、自分の金で望む医療を受けてもらえばよろしい。
 ご老人自らそういって下さるとは、政府や官僚の方々には、実に実にありがたいお話です。新聞は、そういう意見を、喜んで?採用したのです。
 ちなみに、投書された方ご自身がどちらなのかは分かりません。それによって、この投書の性格は違ってきます。もしかすると貧しい一般老人の「健気で謙虚」な声なのかもしれませんが、もしかすると逆に、富裕老人の「冷酷で傲慢」な声なのかもしれません。
 さて、一番最初に取り上げた、「呼吸器による延命中止」に関する番組では、中止「する」という人為行為がもたらす死が、それでも殺人ではなく「自然な死」であると強調されると同時に、それはまた「本人が望む死」でもあることが強調されたのでした。
 そこで、本人と家族が自ら望んで「自然の死」を迎えるケースと並んで、家族に愛され延命を望まれ本人も生きることを望んで呼吸器を外さないと決めるケースが映され、ナレーションが入ります。「自然な死を選びたい」という「自由な」自己決定が尊重されるためには、「生きたい」と望む者には十分な延命医療が続けられる保証が不可欠です」、と。
 しかし、その希望は多分、いや確実に、はかない夢でしかないでしょう。新自由主義がますます拡がる現代世界において、今後開発される高度で高額な「医療を受けられる自由」は、「自由診療」にゆだねられてゆくでしょう。他の多くの「ムダ」と共に、「ムダ」に「延命しない自然な死」が社会的に定着してゆく、させられてゆく一方で、次々と開発される高度医療を「自由に」選択できるのは、高額の医療費、高額の民間保険料を負担できる、少数の富裕層だけになるでしょう。
 今、製薬、保険、医療機器など生命に関連する大企業の期待を背景に、海外「富裕層」のための「医療特区」構想や「医療ツーリズム」といった国家戦略が、進められつつあります。外国人も含めて、富裕層には、日本の先端的な高度医療や整った介護環境が、国家体制で提供されます。
 一方、同じ病気でも、貧しい庶民の老人の場合には、経済的な負担に怯え、家族があれば家族の介護負担を心配し、家族がなければ孤独感を抱き、入院中の看護や介護になじめなかったり、そして何より病状への大きな不安を抱いて、「死にたい」と漏らすこともあるでしょう。すると、私たちは、それらの「理由」を十分聞き取り、解消できるものは解消し、「死にたい」ほどの不安に寄り添って、「生きていいんですよ」という代わりに、「ああ、死ぬと決めるのですね、それが人の自然ですよ」とだけいい、「ベッドが足りない」から「増やすべきだ」と考える代わりに、足りないから「自然な死」を「望む」よう誘導しようというボディブローを受けて、政府や官僚の方々を支持するのです・・・私たち自身が富裕層ではないにもかかわらず。
 投書されたご老人は「謙虚」か「傲慢」か分かりませんが、私たちは、誠に「健気で謙虚」な国民であります。