アジアあるいは義侠について16:琉球処分

 いや、自問するということだけでいえば、私は西郷のことなど全く知りませんが、多分それはあったでしょう。なければただの馬鹿ですからね。戊辰戦争中も、征韓論に破れたときも、あっさり薩摩に帰ってしまったらしいのは、自らについて自問するところがあったからでしょう。しかし、自問にあたって、彼は誰の声を聞いたのでしょうか。
 以前、島に流された時、彼は早速島妻を娶ります。まあ、漁色家で有名な伊藤伯爵をはじめ、当時のことですからMeTooに投稿されることもなかったわけですが、それはそれとして、仮にその娘が、「琉球の人は可哀想ですね、それに海の上では韓国の人ともお互い様ですし。それなのに、どうして男の方はお隣の国にひどいことを仕掛けたりするのでしょうか」などといったとしても、いや、そんなこと絶対いったわけはありませんが、仮にです。いったとしても、大西郷ともあろう人が、島の小娘の声など聞くわけもなく、黙ったまま、遥かに広がる海原の波濤に望んで、大アジアなる天の声か何かを聞いたりしたのでしょう。そこがエラい、とされるわけです。
 72(明治5)年、西郷が政権の留守番をしていた年に、琉球処分が断行されます。征韓論の前年のことですが、このときの西郷の動きは、誰かが研究されているでしょう。素人が何かをいうとボロを出すだけですので何もいいませんが、だいたい薩摩藩薩摩藩士には、琉球王国を「侵略」して属国にしてしまった、レッキとした前科があるわけです。もしも「侵略主義者じゃない」とか「覇道じゃない」とかいいたいのなら、まず前科で無罪判決を得てからにしてほしいものです。その上、西郷の場合は、琉球処分の断行者なのですからね。