アジアあるいは義侠について20:アジア共生

 先回りしていっておきますが、松本の(『竹内好「日本のアジア主義」精読』の限りでの)結論は、全く異論ありません。
 
 竹内はないというが、実態的な「アジア的価値」がなくはない。「民主」といった「西洋的な優れた価値」を「愛」によって「包み直す」とき、「共生」というアジア的価値が浮かび上がる。「アジアは民族的固有性において、なかんずくその文化において多様である。その多様なるアジアが、「共生」というアジア的価値によって、西洋を「包み直す」」ことが望まれる。
 
これが、竹内に対する松本の、68年での回答です。
 そして2017年、中島氏が書いていることにも、何度もいいますが、異論ありません。というか、基本的に同じですね。
 
 西洋を東洋によって「包み直す」べきだという竹内に、私(中島)もまた賛成します。しかし、包み直すとき必要な、肝心の「アジア的価値に実態はない」、すなわち、アジアは「独自の存在論や認識論を持たず、主体形成の方法としてのみ存在する」、と主張したところに、竹内の限界があります。「私たちは、竹内好の先に進まなければなりません」。「今こそ、多一論によって「なめらかな近代の超克」を目指すべきです」。
 
 「多一論」で「なめらか」に。つまり、自分たちの宗教の教えを絶対視する原理的な運動や「一つのアジア」への政治的統合を志向する運動のような、「単一論」的発想ではなく、「多一論的アジア主義」を目指す。そしてもちろん、現実に横行するイスラーム復興運動などのような、過激な急進主義ではなく、「歴史的プロセスの中で構築した国民主権ナショナリズムを生かしつつ、国民国家における諸制度の漸進的改革を進めて」いく。これが大事です。
 で、現在日本への提言はこうなるようです。
 アジア連帯の契機もろとも「アジア主義」をまるごと捨て去って顧みないのは間違っています。アメリカ従属一辺倒の道を歩み、アメリカのアジア爆撃をも真っ先に支持するような日本政府は間違っています。アジア侵略という過去の負の歴史をきちんと反省した上で(そのためには、歴史を見直し、過去の「アジア主義」について、連帯と侵略の契機を仕分けすることが重要です)、いずれ来る安保条約の抜本的な見直しに対応しつつ、アジアの一員として、アジア諸国と協力し、共にアジアの発展を目ざすべきです。
 愛による「アジア共生」への道、アジア諸国が、互いの「多」様性を尊重しつつ「一」つにまとまってアジアの発展を目指す道。誠に異論のありようがありません。
 ただ、どうでしょうか。琉球天皇はでて来ないようで、いい換えれば、それらが出てくるとちょっと困るかもしれません。いやそんなことはなくて、全くのいいがかりなのでしょうけれど。