異常な人(続考)

 今日は 3.11。あれから9年ということになる。
 
 「人でなし」とか「人非人」という言い方があるように、人であって「人ではない」といわれる存在は、昔からいた。例えば人を殺す輩とか。しかし、「殺せば人非人」といった単純なことではなく、不謹慎な言い方になって申し訳けないが、社会的な閾値、人から非人になるデッドライン、があるようだ。現在の日本では、(永山基準というのがまだ有効なのかどうか知らないが)複数人なら極刑となる。しかし、はるかに大量の殺人となると閾を越える。そんな大量殺人は「人なら」到底「できない」・・・犯人は「人ならできないことをした」・・・つまり彼は「人」ではない・・・だから「人」としては断罪できない・・・といった可能性がある。と先日書いた。
 もちろん、現代世界には「百万人殺せば英雄」(チャップリン)やその手下たちが、毎日のように各地で大量殺人を繰り返しているが、今はその話ではない。というか、殺人の話でもない。 
 「人ならできない」というラインについてである。
 
 人には何ができて、何ができないのだろうか。
 例えば、曲がりくねった崖沿いの道があったとする。模型自動車に走り抜けさせようとすると、結構複雑な制御装置がいるだろうし、時折落ちたりもするだろう。しかし、「人なら」たいてい、同じ道をちゃんと歩いて通り抜けることが「できる」。崖から落ちたりは「しない」。
 とはいえ、この程度の課題なら、今のAIは軽くクリアできるだろう。AIは崖から落ちなりは「しない」。しかしそうなると、AIあるいはアンドロイドと人を見分けるテストや装置は結構難しい。それでもなお「人にはできる」こと、つまり「人にしかできない」ことは何だろうか。
 アンドロイドは崖路から落ちないが、人は崖から落ちることが「できる」。といった哲学者もいる。人なら「落ちない」が、しかし「人」という閾をも越えて、落ちることが「できる」。「自由」というのは、そういうことなのかもしれない。
 AIは「AIにできること」しかしないが、人は、「人にできること」だけでなく、「人ならしない」ことを「する」。ディープラーニングで鍛えられた将棋ソフトは名人にも勝つかもしれないが、坂田三吉升田幸三のように「棋士なら指さない手を指して負ける」ことはたぶんできない(いや、これはいい加減な譬えだが)。
 しかし、もしもそうだとすると、つまり、「人ならできない」ことを「する」のが人だとすると、「人ならできない」ということはなくなってしまう。
 数学者なら「そうは考えない」閾を越えて超絶数学理論を考える。人なら「とてもできない」閾を越えて大量殺戮に走ってしまう。そんな並べ方は誠に失礼であるが、ともかく人とは厄介な存在であるようだ。