勝手に自由

 いや、ただ不自由の無意識を突きつけたというのではなく、そこに文法を見つけたところが確かに面白かったのですが、いずれにしても、今さら口出しする見識も意図もありませんし、ほとんど消えたように見える横道なので、元に戻ります。

 といいながら「元」というのがどこだったのか忘れましたが、ともかく、自由という問題が庶民レベルで厄介なのは、それが責任の問題と結び付けられるところにあります。
 だれかが何かを自由に「した」と思おうが、「させられた」と思おうが、あるいは実際にそうであろうがあるまいが、それ自体は他人ごとというかどうでもよいことなのですが、仮にだれかが、何かをするにあたって、「私はそうしないこともできるしすることもできる。そんな自由な主体として、私はいま、だれにさせられるのでもなく、自らしようと思ってそうするのだ」と大層な意識をもったり言ったりするという、そういうことはありうるでしょう。一方また、評論家とか神様とかが、「そんなこといっても無意識の忖度が働いているのだ」とか「「させられているのではなくするのだ」、と意識させられているのだ」とかいうことも、もちろんありうるでしょうし、それはそうかもしれません。
 としても、そんなことはどちらでもいいし、繰り返しますが二者択一でもないし、それでもだれかが、「私は人としてそうする自由をもっている」とか「私は自分がそうしようと思うことをしようと思う」、とかいった自己意識をもったり言ったりすることに、私はケチをつけようとは毛頭思いません。(まだ)