何を「する」のか

 寝る前に、適当なことを書いているだけなので、さしたる脈絡もなく恐縮ですが、何か元の道に戻っていない感じが残っているので、もう少しだけ。

 人が何かを「した」ことで、その責任を問われるかどうかを分けるのは、そのことを、故意にというか、「しようとしてしてした」のかどうか、ということでしょう。「しないことも可能だと分かっていて、しようとして、した」場合には責任を免れないし、逆に心神喪失で「した」ことの責任は、問えないことになっています。

 ただ、物事はもちろん簡単ではありません。
 まず私は、一体何を「しよう」として、何を「する」のでしょうか。
 ティッシュをもらうのももらわないのも「自由だ」と意識して、私がそれをもらったとして、しかし私は、例えば「右手で受け取った」ことは分かっているでしょうが、左手はどうだったか、足はどちらが前だった?と聞かれると、だんだん怪しくなってゆくでしょう。

 少し前、私は、ティッシュをもらうためにちょっと時間稼ぎをして、そして駅前に「戻ろう」と「した」のでした。「戻ろう」と私が意識することで、私の身体は「歩き」始めます。私が「飛ぶ」や「跳ぶ」を選択肢としてもたないというのは、意識に上らない(無意識領域の)条件あるいは制約ですが、「歩く」意識もまた、「戻る」意識と全く同等な現れ方はしません。意識を失うと歩くことができずに倒れてしまいますが、「歩こう」という身体意識は、「戻ろう」という目的意識の背後に、いわば半透明に統合されて、私は「歩いて戻ろう-と-する」という二重性をひとつにまとめて体現します。などと、全くいい加減で訳のわからない言い方で申し訳けありませんが、次に進みます。
 そこで私は駅前に戻って彼女に近づき、ティッシュを「もらう」、つまり、手を出してティッシュを「受け取り」ます。「歩いて-戻る」と同じく、ここでも「受けて-とる」という二重性が見られますが、ここでは、「受ける(受動)」「取る(能動)」と、能動/受動が重ねられます。(さらに、素通りする通行人が多いのを見て、私の意識には、「もらって-あげる」という、二重性もかすめたかもしれません)。
 わけが分からなくなりましたが、とにかく、ティッシュをもらうのも、もらわないのも「自由だ!」と、犬井ヒロシがいうとき、彼の「自由の意識」を疑う必要は全くありませんが、ただ、彼は何を「した」のか、そして、彼にどんな「したこと」の責任を問えるのかは、単純ではないようです。(寝ることにして、続きます)