アジアあるいは義侠について37:英機感激

 ◯ 「カントールは不幸な「革命」家であった。〜(集合論は)「革命」と「自由」をもたらすはずだったし、最後までそう信じていた。だがもたらされたのは、深刻な矛盾であり、「自由のジレンマ」であったのだ。〜「自由」は手に入れた瞬間、自由ではなくなるのだ。〜暗黒はもうすぐ隣まで来ているのだ。」(小島寛之『無限を読みとく数学入門』)
 ◯ 「誰彼が歴史を動かす」という観念から歴史を解放することは難しい。誰彼が一身を賭して悪政を倒し、人格者として仁政を施す。そんな彼または彼女の名を、どうして歴史から外すことができようか。しかし、誰彼の悪政と誰彼の仁政は同質である。誰彼が動かす歴史から自らを解放して無名者を歴史の主体に据えるには、むしろ誰彼の仁政の闇こそを暴かなければならない。」(十詩明)
 ◯ 「アジアを知るという賢者を求めてその地を訪れた私は、殺された少女の声を聞きとれなかった。」(イブン・バットゥータ
 ◯ 「(高校の)世界史の授業で、日露戦争で活躍した指揮官は? との質問に、勢いよく手を上げた‥‥が。東郷平八郎か? 東条英機か?「郷」か、「条」か? はたまた「東」でなく「西」の西郷隆盛ということも? などと混乱しつつ、しぼりだした答えは‥‥「西‥‥条‥‥秀樹!!」(「いいまつがい」
 素晴らしい(!)。「感激」の西郷批評じゃないですか。ぐたぐたつまらない駄文を続けて来たことが恥ずかしくなりましたので、強制的にもう終わります。

 アジアあるいは義侠について36:全員オシオキよ 

 こう長くなると前の方は全く霧の彼方ですが、あちこち彷徨っているうちに、いつの間にか西郷どんにまで言いがかりをつけていて、ファンの方々には申し訳けありません。何度も書いていますが、言いがかり、揚げ足取り、中学生レベルと承知していますので、お見過ごし頂けば幸いです。
 しかし、本屋の棚に関連本が沢山並び、中には佐高信氏の本まであって、もちろん手にとっていませんが、表紙だけでもやっぱり褒めているようですから、一億総西郷ファンというような状態で、そうなると、せめて蟷螂の壊れ斧でも振り上げないと天の邪鬼が廃ります。といっても、中学生以下の知識の上に勉強する気は毛頭ないのですから、結局言いがかり揚げ足取りと妄想しかありません。
 しかし思うに、結局のところ、みなさま誰しもドラマがお好きだということなのでしょう。確かに「民」に甘んじてというか甘んじさせられて、「己を慎む」というか己を抑えつけられて、平凡に暮らす庶民だけでは、歴史は面白いドラマにはなりません。例えば、佐高氏的に、悪の経営者、悪の政治家を批判しようとする場合にも、経営者や政治家なんてみんな悪ですハイ終り、というのではなくて、マシな経営者、マシな政治家を対比配役した方が分かりやすいドラマになるでしょう。
 というわけで、実際のその後の歴史に徴するまでもなく、大久保らこそ大悪役ですが、時代のドラマを作ろうとすると、「廟堂に立つ」有司は全員オシオキよ、ハイ終りでは視聴率がとれません。「万人の上に位して大政を成す」とか「一命を賭してひとりで外国を従わせる」とか誇大妄想ながら、そういう「至誠の人」が裸足で走ったり、木に登ったり、海に飛び込んだり、何やかやしているうちに結局山の上で討ち死にしてしまう、というようなドラマは確かに面白い。
 まあ、天皇絶対の世の中を作っておきながら、最後は天皇に反逆の弓を引いて死んでしまうような人物がヒーローとして持て囃されるのは、健全なことだというべきなのでしょう。(明日で終わります)

 アジアあるいは義侠について35:一君万民

 松下幸之助『指導者の条件』という本には、「指導者は〜謙虚でありたい」など、立派な自戒のことばが書かれているそうですね。
 昨日、西郷『遺訓』の、「廟堂に立ちて大政を成すは」という書き出しに触れました。それを、松下と同じように、西郷が自分(たち)のことを言った、立派な自戒の言葉だと読んだのでした。ただ、何しろ立ち読みで文の後半を覚えていません。もしかして、これは天皇のことをいっているのでしょうか。それなら、昨日書いたことは取り消さないといけません。
 では、もう一ヶ所、立ち読みで覚えてきた書き出しはどうでしょうか。 
  「万人の上に位する者、己を慎み・・・
 「己を慎み」というのですから、天皇に言った言葉だとすれば失礼です。これは、「己」に向けた自戒の言葉ではないでしょうか。「廟堂に立つ」他の連中の「慎み」の無さを思うまでもなく、人格者であった西郷の謙虚な人柄が出ています。さすが西郷ですね。
 え、謙虚?
 そう、謙虚なんでしょうね。自然体で、自分を「万人の上に位する者」だと思っているのでしょう。
 しかしこれ、どうなんでしょうか。前に、「人は人の上に人を作らず」といいながら「学制」を「上から仰出された」福沢のことに触れましたが、それでもさすが「上」は<お上>であって「自分が上から」言い出したということではありません。
 しかし西郷は、たぶんごく自然に、自分を「万人の上に位する者」だと思っていたのでしょう。そしてまた、そういうところが、西郷のスケールの大きさだと見えるのでしょう、ファンの方々には。
 しかし、くどいですが、戊辰の政変といのは、政策のあれこれは別として「政体」については、共和制になったわけでも王朝が変わったわけでもないのですから、それを「革命」的な大変革とか、全てを一新する「維新」だとかいうためには、その理由づけを、天皇親政への復古に求めるというのが、少なくともタテマエではないでしょうか。 
 その後の歴史で繰り返し叫ばれることになる、「一君万民」という合言葉がそれですね。
 その思想は、一方では「万民」に力点が置がれて、身分撤廃やデモクラシーの主張に都合良く利用された場合もありますが、それより「一君万民」は「一君」に力点が置かれて、統帥権をかざした軍部独裁や天皇絶対の思想統制に猛威をふるいます。
 いいわるい、賛成するしない、の問題ではなく、確かに、幕藩体制が瓦解して大政が奉還された戊辰の政変から「一君万民」がスタートしたのですから、そのことを以て、戊辰の政変を「革命」とか「維新」とか呼ぶのは、それなりに理解できます。「天皇絶対」の国家になったということですね。天皇絶対の国家になった、その合言葉が「一君万民」なわけです。
 「さて、そこで問題です。」
 「万人の上に位する者」は、「一君」でしょうか「万民」でしょうか。
 

 アジアあるいは義侠について34:大政を成す

 寝る前に半分朦朧とした頭で書く日記になってしまい、一体何を書いているのか分からなくなっています。いつもいうように前のものを読み返さないのは、面倒だからだけでなく、読み返すと必ず矛盾に気付いてしまうだろうからで、大体、この西郷の話も、どういう経緯でここに迷い込んだのか。征韓論者だったか否か、永久革命反革命か、王道か覇道か、などなどといったことはどっちでもいいと書いたように思うのですが、それなのに昨日は幼稚で陳腐な質問などしてしまったようで、恥ずかしい話です。
 日記といえば、「18日土曜日、晴。本屋に行く」、でした。たぶんNHKドラマのせいで、ブームですね。いろんな種類の西郷本が並んでいる中、岩波文庫の『遺訓』まで平積みされているのには驚きました。ちょっと手にとってみたものの、買っても読まないことが分かっているので元に戻しましたが。もっとも私の鑑識眼は怪しくて、その日は津村記久子と誰かの本を買ったのですが、帰ってすぐに誰かの方は捨て本と判明しましたので、それなら『遺訓』を買った方がましだったのかもしれません。まあしかし、大事な箇所は立ち読みで覚えて来ましたので、買わなかったのが正解なのですが。
 さて、どんな小さなできごとでも、ひとつの色合い、ひとつの意味だけで全てを尽くすことはできません。ましてや明治維新。いや「維新」というのは後からの命名だそうですので、戊辰の政変とでもいっておきますが、ともかく戊辰に起きた戦争を含む政変ともなれば、一面的に評価することはできません。もちろん幕藩体制が瓦解せずに何もなかった方がよかったなどというのではありませんが、だからといって一方的に褒めすぎることはできないでしょう。
 西郷のことを「永久革命者」とか「永遠の維新者」とかいう人がいますが、革命とか何とかいったって、そもそも易姓革命にいう革命ではなく、共和制を樹立した市民革命でもないのですから、少なくともその意味では、僭称じゃないですか。なんていえば、維新ファンなら、多分こう答えるでしょう。戊辰の政変が鎌倉幕府の滅亡や室町幕府の終焉のようなレベルの政変ではなく、歴史上みない「革命」であったというのは、幕府に「大政を奉還」させた「王政復古」だったからだ、と。共和制になったわけでなく王朝の変更すらなかったが、永く続いた幕藩体制を終わらせ、朝廷から征夷大将軍に委ねられていた「大政」を奉還させた。今後は奉還させた大政を誰かに委ねることなく、古の王政に戻し、天皇が「親政」することになったのだ。そこが違うのであって、だから「革命」とか「維新」というのだ、と。
 なるほど。そうですね。ご高説ありがとうございました。
 で、口を挟んで恐縮なのですが。先日本屋に行きましてね。立ち読みしたのですよ、例の『遺訓』を。
 そしたら、いきなり冒頭に、こうあったんです。
  「廟堂に立ちて大政を成すは天道を行ふものなれば・・・
 これは誰のことをいっているのでしょうか。立ち読みなので怪しいですが、これ、天皇のことではなく、自分のことを自戒していっていると読めたのですが。もしそうだとすると、西郷さんは「大政」を成すらしいですよ。立ち読み記憶ですので、「成す」ではなく「為す」だったかもしれませんが。
 「廟堂に立ちて」というのですから殿上人ですね。徳川幕府はもちろん、室町幕府鎌倉幕府も飛び越えて、畏むも天皇が自ら政を行うという親政に復古するのであって、そこが「革命的」なのだというのなら、やっぱりここは、「大政を成すは」ではなく、せめて「天子の大政を扶くは」とすべきではなかったですかねえ。本の注釈者はわざわざ、「この「大政」は「大政奉還」の「大政」という意味である」と書いていましたよ。

 アジアあるいは義侠について33:出兵制圧

 何のために?
 「征韓」というときの「征」とは、「軍を送って武力で制圧する」という意味です。西郷は「征韓論者」でなかった」というのは、「即時出兵して制圧すべし」という考えでないのはもちろん、「自分が行って断られるか殺されるかするからそこで堂々出兵制圧すればよい」、というような考えでもなかった。(さらに、説得失敗を自分の死に場所にしたかった、あるいは衝突派兵を不満士族のはけ口にしたかった、といったプチ目的もなく)、西郷は、ただただ「征韓」に絶対反対な平和主義者だった。(そう想いたい。)
 だとするなら、歴史家の論議など知らない無責任な素人として、西郷本人に聞きたいことがあります。 
 (1)自分が行って、やっぱり断られれば、「ああそうですか」と帰って来るつもりだったわけはないでしょう。軍は控えさせておいて、王道に立って「懇々説諭」するならば、必ずや相手を変えさせてみせる、と自信をもっていたのでしょう。
 しかしそれなら、何故、隣国へ行く前に、先ず板垣のところに行かなかったのですか。胸襟を開いて板垣と論議し、「征韓論の非」を「懇々」彼に訴えて、彼の考えを変えさせようとしなかったのですか。王道といいながら何故、同志に対して至心を以てせず、嘘を書いて騙して動かそうというような、孔孟の道に悖るややこしい行動をしたのですか。
 (2)もしも、「とにかく征韓阻止」が目的ならば、何故、大久保らの「棚上げ」案に賛成しなかったのですか。もちろん、(西郷も大久保も死んだ後の歴史をみれば分かるように)大久保らの棚上げ論は当面の策に過ぎず、いずれ侵略併合に一直線です。それでも73年の時点では、いかに説得に自信があっても衝突のリスクがゼロではない談判に出向くより、「当面棚上げ」の方が、当面の期間だけでも「より平穏、平和な」案でしょう。
 決定していた自分の案を取り消されたとか、策略で天皇を使われたとかいう心理が働いたとしても、畏くも天皇が裁可した「棚上げ」策を受け入れず、不満を表明して辞職したのは何故ですか。
 ・・・・・「征韓」の「征」とは「軍を送って武力で制圧する」という意味だと書きました。
 戊辰戦争で江戸に迫った西郷は、「東総督府参謀」という、厳しい名の司令官でした。東軍は、抵抗する幕軍を武力で打ち破って江戸を「服」することなく、圧倒的な軍事力を背景とした西郷の談判で、江戸を無血で「圧」します。
 西郷は、軍事力で[アタック]して要求を通そうという「韓論者」ではなかったとしても、大久保らの案には強い不満を抱き、天皇の裁可にもかかわらず当面[何もしない]案が決まると、辞職してしまいます。
 西郷どん、あなたは、「韓論者」ではなかったとしても、「平和主義者」というよりは、軍事力を背負った「韓論者」だったのではないですか。あまり違いはない気がしますが。

 アジアあるいは義侠について32:失敗と目的

 第二点。[説得]は成功するか/失敗するか。そして、失敗した場合には[何もしない]で引き下がるのか/それとも[アタック]に向かうのか。どちらでしょうか。

●板垣は 、  西郷は説得に失敗し、出兵することになると<期待>
●大久保らは、西郷は説得に失敗し、出兵圧力が高まることを<危惧>
●西郷自身も、自分は説得に失敗し、殺される、とまで板垣に書く。

 しかし、毛利説によれば、板垣宛私信は<策略嘘>だったということになります。とすれば、

●板垣も大久保らも、説得は<失敗>し、出兵に向かう、と同じ見通し
●ひとり西郷だけは、説得は<成功>し、出兵はなくなる、という考え

だったのでしょうか。
 西郷はかつて、明日にも江戸に突入する構えの強力な軍勢がバックにあったからこそ、単身談判に向かったのでした。今回も政府の高官で海軍大将の自分が単身「未開国」に乗り込めば、「おいどんば殺せば大軍が来っど。きさん国なんひとたまりもなかぞ」、かどうか全く口調はおかしいですが、そんなことをはっきりいわなくても、相手はビビってこちらの要求を飲む。だから板垣宛私信は<大嘘>で、出兵には至らないと思っていたのでしょうか。つまり、こういうこと?

●板垣は西郷に騙され、出兵を実現するために、西郷案に賛成する。
●西郷は板垣を騙して、出兵に期待させて西郷案賛成にまわらせた。

 しかし、そうだとすれば、西郷はいったい、そういう策略行動を、何のためにしたのでしょうか。

 アジアあるいは義侠について31:政治家西郷

 実際の1873(明6)年の状況は二転三転、しかもあれこれ策謀が入り組んでややこしいようですが、先ずそこを無理に、単純な図式にしてみましょう。無理は承知ですので、細かいことはいわないでください。

 大久保「山積する内政を優先すべし」・・・[何もしない]
 西郷「おいどんが出向いて説得する」・・・[話をする]
 板垣「即時出兵して要求を通す」・・・・・・・[アタック] 

 さて、通説を単純化すればこうでしょうか。
 ●西郷は板垣に「私が行って大義を作るから、君出兵して制圧しろ」と書いている。
  → 故に、西郷は出兵征韓論者である。
 それに対して、毛利氏の批判を単純化すればこうなるでしょうか。
 ●西郷が板垣に書いたのは、「だから君、私の案に賛成したまえ」という、懐柔目的の私信である。
  公式文書では、「私が行って平和に話す」と強調している。
  → 故に、西郷は出兵論者でなく平和交渉論者である。
 つまり、私信は<策略嘘>で公式文書が<本心>だということですね。
 その後の論争など、研究界のあれこれは全く知りませんので、何度もいいますが、以下は雑談です。
 毛利氏は、私信は<嘘>で公式文書が<本心>といいますが、世間では逆に、公式文書には<タテマエ嘘>を書き私信で<ホンネ>を漏らすというのが普通でしょう。ただしそれは、私信の相手が親友などの場合に限られます。だから、板垣宛の私信で、西郷は本心ではない<策略嘘>を書いたというのは理解できます。ただ、そうだとすれば、結構「政治的」ですね。
 重要なことは、仮に私信が<策略嘘>だとしても、だから公式文書の方は<本心>だ、という結論にはならない、ということです。両方共<策略>かもしれませんから。
 ●板垣には、「大義ある出兵がよりいいだろう。だから君、私の案に賛成したまえ」と書く。
  公式には、「即時出兵より平和交渉がいいだろう。だから皆の衆、私の案に賛成したまえ」という。
 もしもこのようだったとすれば、「よっ、政治家西郷」、と声を掛けたくなります。「寡黙で二心なく、常に誠心誠意の人」、というイメージが正しいのか、ときには<策略嘘>も使う結構「政治家」だったのか。もちろん私には判定できませんが。
 それはともかく、表面的な動きについては、先ず板垣が「なるほどそうだな」と即時出兵案を引っ込めて西郷案に賛成し、他にも支持を集めた結果、西郷案で決定したのですが、ところが大久保の策略で、天皇が(あるいは天皇の名で)西郷案がひっくり返された、ということのようです。
 さてそこで、問題です。西郷は、中学生少女だったのか、それとも日本政府だったのか。
 前に書いた点について見てみましょう。
 先ず第一点。恋に悩む少女の場合、相手は「対等」であり、もしも勇気を出して話しかけ、相手の男子が「一緒に帰ろうか」などと言ったなら。もちろん大喜びで「相手に従い」ます。対して自民政府はといえば、辺野古の住民には最初から超「上から目線」で、話をするとしても、「自分に従わせる」ための説得です。
 西郷の場合、使節として行こうというのですから、相手は人民ではなく為政者であり国ですが、その目線はどうだったのでしょうか。前に触れた、『南洲翁遺訓』の松本健一引用部分の主旨は、「覇道は野蛮、王道こそ文明」ということですが、言葉遣いはこうなっています。
 「真に文明ならば、未開の国に対しては、仁愛を本とし、懇々説諭して開明にみちべくべきに〜」。
 つまり、西洋は実は覇道を行う「野蛮国」であって、王道を行く我が国こそが「文明国」でなければならないというのはいいのですが、「未開の国」といわれるのが隣国のことでしょう。
 『遺訓』は、死後に他人が書いたものですから、字句にこだわりすぎるのはよくありませんが。少なくともその字面では、「対等」ではなく「上から目線」であり、未開で物が分からぬ相手を「自分に従わせる」ための「懇々説諭」です。