させられてする

 しかし、これは別に難しい話ではありません。
 アメリカ人は、能動/受動だけの英語を使っているので、毎日何百何千と開かれてる法廷でも、「やった/やられた」という単純ガサツな議論をしているかというと、もちろんそうではないでしょう。カツアゲは、「脅されて渡す」と別動詞ですが、われわれ庶民はみんな、日々「働かされて働いている」と同じ動詞の両面です。

 その上、「明日までなんて無茶だよ、やってられないよ全く」とぼやいているので、「私が課長にいっておくから、サービス残業なんかやめて、帰ればいいよ」というと、「でもまあ、何とかやりますよ。この仕事嫌いじゃないし」というので、「やらされてるのじゃなく好きでやっているというのなら、何もいわないけど」というと、「いやいや命令されなきゃやりませんよ。でも好きでやってるとでも思わないと、やってられませんからね」というから、「まさにサービス搾取ね。やらされてるのに、自分からやってるという気持ちとは」というと、「自分からやっているというより、自分からやっていると思おうとしている、ということかな」とか、・・・まあそんな具合に暮らしているのが庶民の世界です。(短いけど眠い)

みんなカツアゲ

 (承前)面白い話題、と書きましたが、それは、学術的な装いの本の真ん中に、「カツアゲの問題」という下世話?な見出しが面白かったという意味であって、予想外の問題が予想外の仕方で取り上げられている、というようなことではありません。

 例えばスリ(掏摸)にやられた場合には、「スる」のはあちらで、こちらは何かを「する」のではなく、「金を取られる」、「られる」被害者です。ところがカツアゲにやられた場合には、「金を取られる」のは同じでも、こちらが「金を渡す」ということを「する」わけです。ということで、カツアゲの問題には、「人が何ごとかをなすとはどういうことか、人が何事かをさせられるとはどういうことか、という原理的な問題」が、典型的な形で露呈している、と国分氏はいいます。もちろん氏は、カツアゲ問題をも、アリストテレス、カント、フーコー、それにハンナ・アレントといった大文脈の中にそれを置いて、重々しく論じるのですが、ここではそんな難しい話に入ることはできません。

 カツアゲは金を「取-られる」のか金を「提供-する」のか、「られる」のか「する」のか、といったようなことに、庶民は全く悩みませんが、学者世界では「られる、する」の境が問題なのでしょう。しかし、「される」のか「する」のか、という問題は、「する」とはどういうことか、何をもって「する」というのか、という問題に帰着します。そして、(自由に、主体的に、自ら、自発的に)「する」とは一体どういうことをいうのか、という問題は、氏もいうように、結局定義の問題になってしまいます。

 一方、カツアゲをする方はつまり「権力」ですが、昔のいい方では、人を縛り自由を奪って、したいことを「させない」のが権力であって、現に、カツアゲでは、相手が「逃げたい、逃げよう」とするのを力で阻みます。ところが、フーコーは、権力は「させない」のではなく「させる」のだといったわけで、実際、力を行使して、金を「出す、渡す」ということを「させる」のがカツアゲです。「させない」権力観から「させる」権力観へ。

 しかし、そうだとすると、われわれは、「どこでもカツアゲ」スプレーをかけられているようなもので、カツアゲが「脅さーれ」て金を「渡ーす」つまり「されてーする」のと同じように、われわれは、日々何かに「するように-させられ」て「何かを-している」ことに気づきます。(眠くなったので、あとはまた:続く)

カツアゲ問題

 國分功一郎『中動態の世界』という本が面白いという人がいたので読んでみました。
 「意志と責任の考古学」という副題が付いていますが、考古学といってもいわゆる知の考古学というか、人文学系の諸分野を縦断して、颯爽と進められる論には間然する所がありません。

 英語の動詞型にはヴォイスというものがあって、能動態と受動態が区別されます。いい換えると動詞を用いて表される事態を、能動/受動という枠組みで捉えるわけです。
 日本語では、能動受動は、「する/される」と、動詞に「れる、られる」を付けることで表されることになっていますが、ただ日本語には、「私は彼に、座らせてくれようとしてもらえた」といった「れる、られる」抜きのややこしい表現や、「雨に降られた」といった独特の表現もあって、後者は「迷惑の受動態」などといわれます。おそらく英語に引きずられて「れる、られる」付きの動詞型を「受動態」といってしまい、そこから「迷惑の受動態」というようなものを作らねばならなくなるのでしょう。現在形/過去形を「する/した」と翻訳するのと同じで、一部の「国文法」の先生からは、「た」は過去ではなく完了であって日本語には「過去形」はないのだ、などといわれそうです。
 まあ、そんなことはいい加減な横道ですが、英語では「能動/受動」という動詞型を使って表すことがらも、日本語はじめ言語文化が異なれば、同じことがらを捉える枠組みも、対応する語型も当然違います。

 国分氏は、日本語の他にはせいぜい初級英語位しか知らないわれわれにはまるで無縁な言語や古代の諸言語までを次々と取り上げ、そこに見られる、「能動態」でも「受動態」でもない「中動態」という動詞型とその表現世界を紹介してゆきます。そして、アリストテレス以下たくさんの哲学言語学以下人文学者を援用しつつ、世の中には「する/される」の対立では説明できない事態があると「能動/受動という捉え方」を崩しつつ、「する」と「される」の境目が問われている今こそ、「中動態」を問題にする意義があるのだと結論づけます。

 「する/される(させられる)」問題、つまり人は「するのか/させられるのか」という問題は、人の自由意志を問わずにはいらない西欧思想の王道問題であり、また歴史社会における人の責任を問うという現代社会の大問題でもあって、アイヒマン天皇だけでなく、我々自身も含めて誰もがこの問題から逃れられません。そんな大問題に、簡単に口出しすることはできませんが、大著の途中に、「カツアゲの問題」というのが出ていて、これはちょっと面白い話題でした。(続く)

なめられている8割

 「復興ゴリン」が汚染水放流、「おもてなし」が観客締め出し、「コロナに勝った証」が国民大感染下での強行。もはや何をかいわんやです。  
 しかし、一番欲しいのが支持率だとすれば、8割以上が反対する強行姿勢をなぜ維持し続けるのでしょうか。もちろん国民以上に怖いアメリカから是非やれといわれているなら別ですが、今回はそうではないようですし。
 それでも強行しようというのは、もっと欲しいものがあるからなのでしょうか。金か利権か両方か。でもその辺の追求はなくて、マスコミは、「五輪代表決まる!」というニュースを連日報じて、頑張って出場権を勝ち取ったこの選手に出場させてやりたい、という雰囲気を作っています。

 しかし・・・ これだけ反対の声大きいのに、これだけ国民が支持していないのに、という疑問は、間違っているのかもしれません。もちろん、金や利権その他のこともあるには違いありませんが、それでも、国民から支持されなくても強行するのだ、というのは、余りにも計算が合いません。
 しかしもし、国民に「支持されなくても強行する」というのではなく、国民は「強行すれば必ず支持する」、と思われているのだとすれば。
 いま反対していても、開会式をマスコミがブチあげて、連日の競技が始まれば、熱狂国民はコロッと意見を変えて、「やってよかった」「強行姿勢を貫いた政府はエライ」となるに違いない。どうやらそう思われているフシがあります。
 「国民」はなめられているのです。
 確かに、モリカケサクラをすっかり忘れて三度目の安倍でも受け入れかねないのでは、なめられても仕方ありません。

単純な話

 少し補足しておいた方がよいかもしれません。「単純」なものは「単純」だからダメだ、というのは「単純」かどうか。
 有縁社会は、メタレベルの無縁天皇に支えられつつ、無縁の人々を排除差別し、しかも両無縁がつながっているという、ダイナミックな複雑構造をもっているのですから、単純なフラット化や廃止論は無効です・・・というのは、誠にその通りでしょうし、多分そういったつもりなのでしょう。
 けれども、問題は、単純な廃止論を退けるその先で、単純廃止論は単純無効だから有効な複雑廃止論を提唱しようというのか、廃止論は単純無効だから(少なくとも当面は?)存続論に組みしようというのか。どうも単純な道筋で後者にゆくのです。などと書くと、街場の天皇論とかいう本で複雑に存続を論じているのに、読みもしないで単純イチャモンをつけるなと一蹴されるでしょうが。
 不可触賤民を神の子(ハリジャン)といったのはガンジーらしいですが、別に天皇でなくとも、神でも祖先でも王でも何でも、とにかく有縁世間から縁を拒否され差別される卑賤の無縁者が頼れるのは、メタレベルの無縁権力の他にはありません。江戸時代には非人や視覚障害者を「身分保障」したのは将軍でしたが、複雑だからそのままにしておこうとはならずに、単純な身分フラット論者や単純な倒幕論者が、デカイ顔をして東北列藩に襲いかかったのでした。
 それは余計な話であって、私も単純論は嫌いですが、錦旗を掲げた単純官軍が勝つのですからバカにはできません。

天皇とワンマン社長

 たまたま内田白井両氏の対談文庫本に触れていらぬ道草をしましたが、本全体は大変面白く読ませて頂いたということを、改めて記しておきます。最後まで読みました。

 と書いた上での道草もう一つですが、内田氏は、網野史学を踏まえて、こういいます。「天皇というのは無縁の人たちとつながっている。天皇も無縁の人なんですよね。(無縁の)人たちというのは、いわば天皇に身分保証してもらっているわけですから、無縁の人たちは日本社会において非常にダイナミックな役割を果たしてきたと思う。ですから、例えば被差別部落の問題を、~排除して全部フラットにすればいいんだというのはちょっと単純すぎる~。社会的なそういう機能というのは誰かが担保しておかないと~」。で、それを受けて白井氏は、「(そのとおり複雑なんだから)、単純化して(天皇制の)廃止論にもってゆく(のはまちがっている)」、と。
 「身分保障」とか「担保」とかいう言葉がもうひとつ分かりませんが、それはそれとして、ここには、「ですから」という語が二度使われています。それこそ単純化するとこういうことのようです。・・・無縁の人たちは、天皇身分保障をしてもらっているわけ「ですから」ダイナミックな社会的役割を果たしてきた。「ですから」、被差別部落の問題をフラットにすればいいというのは単純すぎる。単純な差別廃止論や天皇制廃止論は駄目だ、反対だ、と。
 網野氏が見事に光を当てたのは、無縁の人たちが、中世をはじめとする「日本社会において非常にダイナミックな役割を果たしてきた」という歴史的事実です。また例えば特定の被差別部落の人たちが天皇の棺を担ぐといった「つながり」があったとかも事実でしょう。
 しかし、そのような歴史的事実の次元(真偽が問題になる次元)の話に、「ですから」「ですから」と続けて、被差別部落の「フラット」論とか天皇制の「廃止」論といった(単純な)主張は駄目だ、と論結するのは、ちょっと単純な話の運びでしょう。

 「日本社会」という大きなものとは限らず、縁(関係性の絆)で縛られた社会システムがあって、その「上」でも「外」でもいいのですが、ともかくメタレベルに、「縛る-縛られる」有縁システムに「縛られない」、自由で無縁な何かが君臨して、システムをひとつに縛るという機能を果たします。他方、「下」でも「外」でもいいのですが、ともかくシステムから排除され差別される、自由で無縁な人々が、それゆえの不可欠な社会的機能を果たします。で、下の自由と上の自由が、どこかで通底もするでしょう。
 などと、ややこしい言い方をしましたが、天皇でなくても、将軍が白拍子世阿弥のような芸能者を寵愛したり、その他システムあるところどこにもある構図です。そんな昔のことでなくても、例えば、社則に縛られることで会社に所属している社員を、社則に縛られないワンマン社長が統括している一方で、社員外雇用者扱いの掃除夫が、課長クラスでさえ入ったことのない社長室に毎日掃除に入り、たまには「ごくろうさん」と声のひとつも掛けられたり。だからといって、ですから掃除夫もフラットに正社員にしようとか、時代遅れのワンマン経営方式は即改革しようとかいうのは単純論だと退けるべきだとはならないでしょう。いや、そう主張してももちろんいいですが、ワンマン社長と非正規掃除夫を含めた複雑システムが機能しているという事実次元から、「ですから」単純な改革廃止論を退けるというのは、ちょっと単純すぎる気がします。

 いやまあ、どうでもいい話であって、対談本は面白く読ませてもらいましたが。

平成と沖縄

 (承前)もうひとつ。メタレベルの社会的機能を生身の人間に背負わせるのが問題なのは、せっかく象徴機能だけに切り替えたとしても、象徴的(非歴史的)機能と生身的(歴史的)存在は切り離せないということです。どうがんばっても昭和天皇には、当人としても国民から見ても、大元帥だった「昭和」前半の背後霊が消せませんでした。両氏が上皇に感激したのは、確かに当人夫妻が「機能を生きる」という矛盾を歩むよくできた人物だったからでしょうが、それができたのも「平成」だったからでしょう。いうならば「平成」はきれいだったわけです。
 同様に、空間的にも、明治以降の併合地、植民地、占領地、支配地、権益地などは、「昭和」が敗戦とともにまとめてサッパリと<処分>してくれました。「北方尖閣竹島」を除けば、内田氏らが「愛国」だという際のその「国」は、平成を通して安定しています。天皇が象徴としてまとめる国とはどこからどこまでか、総意で支える国民とは誰であり誰でないか、といったややこしい問題は考えなくてよかったわけです。
 そこでちょっと横道といえば横道なのですが、ある箇所で内田氏は、ミッドウェーで手ひどくやられた時点で、冷静に判断して戦争を「やめていればよかった」と、誠にもっともなことを書いています。その通りだと思いますが、そこで、こう続けているのです。もしその時点で「講和」が「奏功していれば」、その後の「大量の戦死者も本土空襲の死者も、広島、長崎の原爆の被害者も出さずに済んだ」、と。漏れている死者がいろいろあるのは仕方ないでしょうが、ここには沖縄の死者はあげられていません。琉球王国を潰してまだ年月が浅く、戦争では本土の防波堤として使い、戦後は本土独立と引き換えに差し出した沖縄。10回以上も沖縄を訪れた平成天皇は、「国」と「国民」の統合を象徴的に生きようとすれば、沖縄を「切り離さい」というメッセージが何より重要だということに、深く気付いていたのでしょう。もちろん内田氏は愛国者として、沖縄の国土を旧敵国基地に差し出したままで何が独立国か、と繰り返しいいますが、こんなところでサラッと沖縄(琉球)を切り離しています。
 ついでに内田氏の「もしも」は、あの時点でもしも「講和が奏功していれば」であって、「負けていれば」ではありません。もしもあの時点で「講和が奏功していれば」、他の地域はともかく、台湾と朝鮮はそのままだったでしょう。いつまでかは別にして、少なくとも「講和」の時点では。しかしその点も、触れずにサラッと流されています。
 確か聖火リレーの観客の話だったはずなのに、何だかおかしなところに来てしまいました。
 いずれにしても、実にあいまいな「国」なるものの統合を象徴するというメタレベルの(時空を超えた)社会的機能を、しかもこの世で(時空に縛られて)生きる。そんな無茶なことを「総意」で押し付けられて、両氏を感心させるほど見事に、考え抜いてそれを演じるアクターなんて、何代も続くわけはありません。たかが結婚することにも結婚に失敗することにも、山ほど執拗な誹謗中傷が投げつけられる。全く割に合わない残酷な話です。それでも制度が必要というのなら、期限を限って民営化する他ないでしょう。生前退位という前例は、そこまで見据えてた案だったのかもしれません。などということはないでしょうが。