どちらが怖いか(2)

  ■どちらが怖いか(2)
 被害報道が増えている。まだ下敷きの人も、各地で孤立している人々も。そこに雪が降る。 

 「どちらが怖いか」、と書くつもりだったのだが、たどり着かない。

 暮れにたまたま「サロゲート」という映画を観た。ブルース・ウィリスが元気で走り回るから、かなり前の作品だろうが、冒頭のタイトル部分で、一瞬、石黒浩氏が二人並んだ映像が出る。もちろんご本人とアンドロイドである。いわゆる不気味の谷を乗越えているのかどうかは失礼ながら微妙なところだが、「そっくり」を目指す氏にオマージュを捧げたのであろう。しかし映画に入って冒頭から登場するのは、実物そっくりではなく、金髪ふさふさで美肌のB.ウィリスである。彼は刑事としてバリバリ仕事をする一方、美しい妻と家庭生活を営んでいるのだが、時折自宅で充電装置に入り、代わって自室の操縦ベッドに横たわっていた少髪おなじみのB.ウィリスが起き上がる。生身の少髪ウィリスがアバターのアンドロイドである金髪ウィリスを、脳波で操縦していたのである。起き上がった生身少髪ウィリスはリビングに行って美人妻に、「君に会いたい」という。「会ってるじゃない」、「いや、君じゃなくて」、と妻の部屋をノックするが、年齢相応で「それなり」の妻は部屋に入れてくれない。この時代、人はアバターのアンドロイドである「サロゲート」を入手して働かせ(働き)、家庭生活も営ませて(営んで)いる。その結果、街頭でも会社や商店でも、サロゲートばかりが溢れているが、当然、全員が若くスタイルの良い美男美女である。少髪ウィリスはその時代の例外変人で、「会ってるじゃない」というアバター妻は、これが「私」だと充足している。
 先日、近所のチェーン店レストランに行った。タッチパネルで注文すると、しばらくして配膳台が自走してテーブル傍まで料理を運んできた。ただの四角い箱で、無言だし、注文品を客の前に置いてくれるわけでもないから、配膳ロボといってはいい過ぎだろう。しかし、仮にその箱にモニターとアームがついていて、別室の操縦者が、モニターで会話しながらアームをリモート操作して接客配膳してくれるなら、十分ロボットといえるだろう。実際にドキュメンタリ番組で見たが、重度障害でベッドに寝たきりの人が、そんなアバターのロボットを操縦して、同僚や客と会話しながら仕事することが現実になりつつあるようだ。可能性が広がるのはすばらしいことである。そうなるとさらに、手に持って本を読むのも筋力ある者の特権的行為だという芥川賞作家の指摘ももっともなので、声を出せず指も動かせない人でも、会話しながら仕事ができるような、「サロゲート」型のアバターロボットも将来開発されるかもしれない。
 電話の相手が息子か詐欺師か、出会い系の相手がほんとにJKか中年親父か、そんな見分け問題なら切実である。しかし、客である私に注文品を運んできたのが人そっくりでも箱型でも、「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」「はい」「ではごゆっくりどうぞ」といった会話の相手が、遠隔操作している「人」なのかどうか、人だとすればモニターに映っている人なのか、あるいは別の人なのか、それとも人ではなくAIなのか、分からない。分からないが、あるいは分からないから、どうでもよい。
 前回も触れたが、<専門家>にとって、会話相手が「人かAIか」を見分けることは一大問題である。見分けるためにはどんなテストをすればよいか、何を聞きどんな話をすればよいか。それを追求することは、AIの進化にも人間観の深化にも役立つことだろう。大いに研究してもらいたい。
 しかし、ふだんの生活の中では少し違う。大変くどいがもうひとつ。今は知らないが、以前、近所の医院の待合室に、こけし型等身大ロボの「Pepper」がいた。壁際に並んだ椅子に座る待合患者の前を巡回して、時々立ち止まる。大抵の人は黙ったままだが、たまにおばあさんが、「いい天気ですね」などと話しかけたりする。Pepperに天気予報や気温を聞きたいわけではないが、何度か自分の前に立ち止まられると「気づまり」を感じ、黙ったままでは「申し訳ない」という気持ちにさえなるのは分かる。もちろん「人」などとは思ってはいないが「人と無縁」な機械だというわけでもない。  

 (平凡なことばかり書いているうちに、面倒になってきた。タイトルにした本題に触れないままはまずいので、とにかく一言だけ付け加えて終わることにする。)
 本屋やレストランや医院だけではなく街のあらゆるところでAIが人のように働いている。もちろん家の中でも炊飯器や洗濯機その他いろんなものがAI化で「人化」している。AIのおかげで、仕事を取られたり新しい仕事に就けたり、便利になったり不便になったりもするが、普通はいちいち意識しないまま、私たちは毎日、いろんな「人ではない」ものと「人のように」会話しつつ、日々平凡に暮らしている。平和な暮らしではある。
 だが、ときどき、<専門家>の声を耳にすることもある。便利適当平和に付き合いをしているうちに、AIの進化が進み、遂に singularityというらしい特異点を越えて、AIが自立した意思をもつのではないか。そんな不安が浮上している。
 特異点を越えてAIが意思をもつと、人がAIを使うのではなく、AIが人を支配し人を使うようになるかもしれない。いずれそんな世界が来るのではないか。SF界では繰り返し取り上げられて来た話であるが、たいていそれは、ディストピアとして語られてきた。「人がAIを使う」便利平和な世界がいつか逆転して、「AIが人を使う」怖ろしい世界が来る不安。
 だが、どちらが怖ろしいか。
 原子力もインターネットも、飛行機もロケットも、軍事から、軍事だからこそ、飛躍的に発展した。
 もちろん人は、AIを使って戦争をする。人がAIを使う世界。    

 長期占領地区で。空中には監視用無人ドローンが常時徘徊し、地上では何台もの自走攻撃ロボットとAI兵士が絶えずパトロールして、出会う住民一人一人をカメラで追っている。撮影した顔認識データは地区の占領軍情報センターに送られ、住人データベースと照合特定して、瞬時に攻撃ロボやAI兵士に返される。危険人物と特定された場合は、直ちに投降を呼びかけ、拒否すれば射殺する。そこまでは今でもできるだろう。
 さらに近い将来、顔データを表情パターンに分類判定するシステムが採用され、パトロールのAI兵士から送られた住民の顔の表情が、例えば「C3タイプ(強い嫌悪や敵意)!」などと判定されれば、即時に発砲射殺信号が送られるようプログラムされている。システムやプログラムの内容は、安全保障上の機密事項として一切公開されないまま、「客観的にテロリストと判断したので緊急処刑した」と発表され、支持する大国からも追随従属国からも、「テロリスト掃討」として承認される。
 AIが意思をもって人を使うのは怖いか。
 人が意思をもってAIを使うのと、どちらが怖いか。

どちらが怖いか

 どちらが怖いか
 元日から地震津波火災と飛行機事故。おめでとうございますとは書けない年明けとなった。
 そして世界は、殺し合い戦争が、年を越えて続いている。
 昨年、戦争と並んで話題のひとつとなったのはAIである。生成AIの急展開を契機に、国際的規制の議論が始まり、著作権侵害の大訴訟も起きた。
 論調の基調は、このままAIが進化してゆくと、これまでは聖域の筈だった分野でも、人が仕事を奪われるのではないかという不安が一つ。さらに、進化が特異点を越え、ついにはAIが自意識をもち意志をもって、人がAIを使うのではなく、AIが人を使い人を支配される時代が、やがて来るのではないか、という不安が一つ。といったところだろうか。
 しかし、あくまで<素人>庶民的にはという限りでだが、少し違和感がある。それらの議論が、少なくともまだ今は、人はロボットとは違うアンドロイドとは違うAIとは異なる、ということを前提としているからである。だが、そうだろうか。
 確かに、AIを論じる人たちを含め、一般に高級(高級)とされている職業をもった人たちは、今のところまだ仕事を奪われてはいない。その仕事は人にしかできない(と思われている)。だから、それがそうでもなくなって来たと慌てているのだろう。けれども。
 例えば、時々行く大きな本屋の、以前カウンターだったところに、今は大きな箱型の電子機器が並んでいる。おそらく、本好きな何人かのバイト店員が、その箱に仕事を奪われたであろう。工場の産業ロボットは、人とは違って、食べたり寝たり酒を飲んだりはしない。しかしその相違は余計なことであって、経営者が100機入れて300人を解雇するとき、彼にとってロボットと人は、言われた仕事をする「同じ」道具として計算される。本屋の販売装置とバイト店員も「同じ」である。
 だが、客にとっては同じではない。本を買おうとする私は、モニターが光る箱型装置の前に立つ。で、「画面にタッチしてください」から始まって、「書籍の購入」を選び、「ポイントカード」所持を聞かれ、カードの読み取り口を探してスライドさせ、「次へ」を選び、指示に従って本のバーコードをスキャナにかざし、これでいいかと「確認」させられ、他に購入があれば「次へ」で繰り返し、「購入完了」にタッチして、でもまだ完了ではなく、「支払方法」に進んで選択し、クレジットカードを挿入、画面を「確認」して「領収書」ではなく「レシート」を選び「袋不要」を選び・・・ようやく買ったことになって、カバーは自分でつけさせられる。実に大変である。
 <専門家>は「今後仕事を奪われるかも」といま心配するが、<ただのバイト店員>は既に光る箱に仕事を奪われ、「人が支配される時代が来るのではないか」という<専門的な>議論が掲載された本を手にした<ただの客>は、既に、箱型装置にあれこれ指示され、いいなりに行動しなければそれを買えない。
 と書いていて、直接は関係ない話だが、思い出したことがある。世話をして育てる電子玩具「たまごっち」は今もあるようだが、以前、親しい女性のお母さんにそれをプレゼントしたところ、亡くした娘(女性の姉妹)の名前を付けて、可愛がってくれていた。ところが、たまたま入院だったか旅行だったかで家をあけている間に電池が切れたか、「さようなら、〇〇(名前)は遠くに行きます」という言葉を残して画面が消えてしまったらしい。亡くした娘の名でそういわれ、号泣してしまったという。申し訳ないことをした。それからしばらくして、話しかけると少し遅れて同じことばを返す「ぬいぐるみ」が流行した。今度は、ただ自分の言ったことばをオウム返しに繰り返すだけなので、前のようなことは起こらず、しばらく楽しんでいたと聞いた。
 「ヒト」型からはるかに程遠いただの小さい卵形が、泣くほどまでに「人の相手」となる。「生成」とは全く無縁な、単なる自分のことばの繰り返しが、一応「人との会話」となる。オウム返しは「会話」ではないというなら、SNSで、「起きてる?」「る」「いい天気だね」「ね」などという会話をしている中高生などは。ぬいぐるみ以下ということになってしまう。
 もちろん<専門家>は、チューリングテストとか中国語の部屋とか苦労しているし、SFでは夢を見るかどうかが問題になったりする。それはそれで大いにやっていただけばいいのであるが、ただの<素人>には、もともと境目はあいまいであるし、それでどうということもない。(続く)

 

 

蛇足

 昨夜、「いい加減な話になってしまった」と書いて終わりにしたのだが、友人のフェミニストのことを思い浮かべると、やはり一言だけ付け足しておいた方がよいかもしれない。
 子を産み育てることを「ハンディキャップ」と貶めるそのこと自体が、「経済的生産」能力だけで全てを測る「近代(資本主義)」こそが生み出した(近代的)性差別に他ならない。原始女性は「産む性」として輝く太陽であったのだ、フェミニズム(の全て)が産むことを「批判」するというのは、頭から間違った誤解である・・・といった反論も含めて、面倒なので「単純乱暴に引き合いに出すと反論されるだろうが」と書くだけにしたのは、ちょっと乱暴すぎた。
 ついでに、そのことは、「私の」子がほしい(私的所有したい)という切実さと、子育ての「社会化」の問題(親権と養育義務(権利義務)はなぜ「私」に課せられるのか)にも関連するだろうが、そんなことまでいうとますますボロが出る一方なで、もうおしまい。

もうひとつ続き

 資本主義によってもたらされた「近代」は、「不平等」や「差別」を批判する。例えば世界人権宣言第2条には、多くの項目がリストアップされている。「全ての人は、人種、膚の色、性、言語、宗教、政治意見、国籍、社会的出身、財産、その他によって差別されない」。「財産」という語も一番最後にあるが、付け足しである。「財産」のない者が飛行機のファーストクラスの席に座ることを拒否されても「差別」だとは誰もいわない。それが近代である。しかし、黒人の少女がバスの特定座席に座ることを拒否されると、全米で抗議デモが起こった。それが近代である。「経済的」関係である限り「等しくない」ことは「不平等」でも「差別」でもなくむしろ称賛されるが、それ以外(経済外的)に「等しくない」扱いは、差別として、あるいは差別にに繋がるものとして「批判」される。
 「性」差別に関する「批判」思想はフェミニズムといわれる。かなりの理論的歴史をもっているフェミニズムをまとめて単純乱暴に引き合いに出すと反論されるだろうが、「近代批判」も「反近代」も「ポスト近代」も、近代の産物だという意味である。
 秘書アシスタントその他特定個人を長期的に専属サポートする職種はいくつもあるし、家事代行業者も保育士も調理師も性産業従事者も立派な職業人と見なされるが、「経済的」雇用ではなく女性に割り当てられた、または引き受けられた専業主婦という仕事を、フェミニズムは「批判」する。それでも「専業主夫」という入れ替えは可能だから「選択」なのだと言える余地がある。しかし妊娠出産は、入れ替え不可能に女性に割り当てられ、または引き受けられる他ない仕事である。もちろん非難したりするわけはないが、割り当てられた性分業に、フェミニズムは、「近代」思想は、「批判」的でないわけにはゆかないだろう。もちろん強制には断固反対する。
 より大きな利潤の獲得を目指す資本主義の発展は必然的に利潤率の低下に直面する。より大量の労働者と消費者を取りこんで発展を続けようとする資本主義は「先進国」になれば人口の減少に直面する。「新しい資本主義」など(ついでに新しい社会主義なども)、今のところ何をいっているのか分からない。少子化に追い詰められた資本主義が、野菜工場のように人工培養による労働者「製造」に進んだり、アメリカのような精子通販や代理母雇用といった妊娠出産の「経済」化を世界的に進めたりするようなSF世界は、少なくともまだかなり先のことだろう。
 イーロン・マスク氏は、「人口急減は文明にとって地球温暖化よりもずっと大きなリスクだ」といっているらしい。今も地球上の人口は増えつつあるが、世界の各国が資本主義の「先進国」に向かって進んで行くなら、いずれ軒並み少子国となるだろう。マスク氏もいうように「急減」は確かに大問題だろう。しかし、地球上の人口が減少すること自体は、テスラの台数や「X」のツイートが減ってマスク氏は困るだろうが、われわれ庶民にとっては、もしかすると悪くないことかもしれない。

  長くなった上に、実にいい加減な話になってしまった。   

少子化 続きの続き

 で、何の話だったか忘れかけたが、子育てである。労働力商品は特殊であって、その生産(再生産)は、短期的には明日もまた元気に職場に出勤することであり、長期的には退職と引き替えに職場に元気な子どもを就職させることである。合わせた費用(労働力の再生産費)が(労働の対価と見なされる)労賃であるが、本来資本がすることは金を払うところまでで(実際にはもっと複雑で企業サービスや福祉政策が伴うが)、工場労働は強制できても、「明日のために食事をして健康を維持せよ次世代のために子供を育てよ」という強制はできない。それらは労働者のプライベート領域であって(と見なされ)、食欲と子育て欲という「自然」(と見なされるもの)にまかせられる。
 曲者は後者である。
 前にもいったように(と思うが?)、実際の資本主義は家父長制も性差別も大いに利用するが、しかし近代(資本主義)は、それら「経済外的」な社会モメントを強く「批判」する。
 ところで、近代資本主義の原動力は「分業」であるが、それら分業体を複雑に組み立てて付加価値の複合体である商品を作り上げてゆくのは取引(交換)である。もちろんここでも、実際には世の中アンフェアなトレードだらけなのだが、本来資本主義は取引過程がフェア(等価)でも生産過程で利潤が生みだされるというシステムであって、近代(資本主義)は、アンフェアな分業を「差別と支配の源」だと「批判」する。
 性的分業はどうか。農業と繊維産業の「経済的」分業は問題ないが、「アダムが耕しイヴが機を織る」分業は、性差別と家父長制支配の源として「批判」される。それでも、仕事を取り替えたり二人でしたりすることで、批判は回避できるだろう。だが、農産物や布地の生産ではなく、明日の自分や次世代の自分の「再生産」は?
 これまで、「子をなす」「子育て」などといいつつ、意図的に「妊娠、出産」という語を使ってこなかった。マンガはもちろん小説やドラマや映画では、昨今の驚異的な技術展開を更に進めて、培養槽やクローンやアンドロイドといった(性分業なしの)「(人間の、または代替の)労働者の生産」をめぐる話が溢れている。今そういった話がしきりに創られるのは、妊娠出産という生身の性分業が、今のところ入れ替えも共同作業も不可能な「固定された分業」だからだろう。
 農耕と機織りはもちろん軍隊と売春も、今やアダムとイヴに固定されてはいないが、妊娠出産だけは、一方的なハンディキャップとして固定されている。人種別でも性別でも何でも、否応なく割り当てられ固定される分業は、近代(資本主義)の「批判」対象である。
 いつの間にか、怪しいトンデモ説のようになって来たが、行き掛かり上、仕方がない。「資本(主義)」は少子化に困って女性が「産む」ことを熱望するが、「近代(資本)主義」は女性(だけ)が「産む」ことを「批判」せざるをえない。政府が「女性活躍」というのはモノ、サービスの生産活動のことであって、間違えてもヒト(子ども)の生産活動のことではない。大っぴらには絶対言えない。(続く)

続き

 続き、といっても、少子化については、詳しいデータの分析に基づく専門的見解も政策的議論も山ほどあるだろうし、素人が口をはさむようなことは何もない。社会学も経済学も怪しい、いい加減なことを書くだけなのだが。
 現代の資本主義は、子育て欲求という「自然」を「社会的」にバックアップしきれなくなっているというのは正しいとしても、では、子育て世代だけでなくもっと若い世代から十二分のバックアップがあれば、そしてさらに「こんな時代こんな国で」などといわれるような将来不安も払拭されれば・・・つまり仮に万一、世間で少子化の原因といわれるような、あらゆる社会的条件が整えられればということだが・・・人はみな生涯に3,4人以上の子育てをするのだろうか。 
 資本主義は、奴隷制でも家父長制でも人種差別でも性差別でも、その他何でも利用するが、しかし、それらを元のまま「正当に」利用はできない。資本主義とは、経済外的強制を経済的強制に置き換える「主義」だからである。近代(資本主義)の「批判」思想は、人の平等を何より主張し、あらゆる「経済外的」な不平等を強く「批判」して、大富豪とホームレスの「経済的」不平等を際立たせる。人の自由を何より主張し、不自由と束縛を強く「批判」して、身分奴隷を債務奴隷に置き換える。心ならずもしたりされたりすることはパワハラやセクハラと糾弾されるが、性産業従事者が心ならずも「金のために」したりされたりする行為は、「経済的」サービス業務として、批判思想であるフェミニストからも擁護される。(また続く)

人が減る

 「取り戻す」などという空念仏ポスターも見かけなくなった。もはやこの国は、「先進国」からも置き去りにされて「取り戻し」不可能ということが分かってしまったからだろう。といっても、歴代の政府を選んで来たのはわれわれであるし、置き去りにして先に進んでいる筈の米欧「先進国」連中にしてからが、皆殺しを止められないどころか批判すらできないのだから、そんな「先進国」に「先」はない。
 例えば、人口が減少している。
 確か白井聡氏がこんなことをいっていた(もちろん正確な引用ではないが)。資本主義では、労働力商品の価値、つまり労働者に支払われるべき対価は、労働力の再生産費である筈なのに、いまや労働者は子どもを育てられなくなっている。資本主義の行き詰まりが明らかだ、と。
 いわゆる「先進国」は、軒並み「合計特殊出生率」が2.0を遠く離れている。安心して結婚子育てできるだけの労賃、公的支援、社会的インフラが不十分で、つまり一国の総資本が労働力の再生産を支えられなくなっている。となると労働力も「外部」収奪で生き延びるる他なく、労働移民受入れで何とか凌ごうとするのだが、それもなかなかうまくゆかない。
 白井氏は、自らもそうであるような子育て家庭への公的支援がさしあたり必要だといっているが、他にも、結婚して産んで育てて学歴をつけて社会に送り出すまで(労働力の再生産)を支える様々な経済的社会的条件を整備しなければならない。それはそうなのだが、そして「先進国」の資本主義はその力を失っているというわけだが、では仮にそれら「諸条件」を高度なレベルで用意できたとすれば、外部に頼らなくても人口は維持できるのだろうか。
 ある程度は、実際に効果を上げている国もあるようだ。ただ、その構図は、「多くの人が子育てをしたいと思っている」こと、いうならば、子育てが「自然的欲求」であることを前提としている。しかしもちろん、ここでも「自然的な事柄は社会的な事柄」である。
 どんな社会でも、100%の人が子をなし100%の幼児が壮年まで育つわけではないから、内部だけで人口が維持されるためには、人は少なくとも3,4人以上の子育てをするのが「普通」でなければならない。長年、その「普通」が自然(当然)とされる社会的強制の下で、人は暮らして来たのだった。(続く)