どちらが怖いか

 どちらが怖いか
 元日から地震津波火災と飛行機事故。おめでとうございますとは書けない年明けとなった。
 そして世界は、殺し合い戦争が、年を越えて続いている。
 昨年、戦争と並んで話題のひとつとなったのはAIである。生成AIの急展開を契機に、国際的規制の議論が始まり、著作権侵害の大訴訟も起きた。
 論調の基調は、このままAIが進化してゆくと、これまでは聖域の筈だった分野でも、人が仕事を奪われるのではないかという不安が一つ。さらに、進化が特異点を越え、ついにはAIが自意識をもち意志をもって、人がAIを使うのではなく、AIが人を使い人を支配される時代が、やがて来るのではないか、という不安が一つ。といったところだろうか。
 しかし、あくまで<素人>庶民的にはという限りでだが、少し違和感がある。それらの議論が、少なくともまだ今は、人はロボットとは違うアンドロイドとは違うAIとは異なる、ということを前提としているからである。だが、そうだろうか。
 確かに、AIを論じる人たちを含め、一般に高級(高級)とされている職業をもった人たちは、今のところまだ仕事を奪われてはいない。その仕事は人にしかできない(と思われている)。だから、それがそうでもなくなって来たと慌てているのだろう。けれども。
 例えば、時々行く大きな本屋の、以前カウンターだったところに、今は大きな箱型の電子機器が並んでいる。おそらく、本好きな何人かのバイト店員が、その箱に仕事を奪われたであろう。工場の産業ロボットは、人とは違って、食べたり寝たり酒を飲んだりはしない。しかしその相違は余計なことであって、経営者が100機入れて300人を解雇するとき、彼にとってロボットと人は、言われた仕事をする「同じ」道具として計算される。本屋の販売装置とバイト店員も「同じ」である。
 だが、客にとっては同じではない。本を買おうとする私は、モニターが光る箱型装置の前に立つ。で、「画面にタッチしてください」から始まって、「書籍の購入」を選び、「ポイントカード」所持を聞かれ、カードの読み取り口を探してスライドさせ、「次へ」を選び、指示に従って本のバーコードをスキャナにかざし、これでいいかと「確認」させられ、他に購入があれば「次へ」で繰り返し、「購入完了」にタッチして、でもまだ完了ではなく、「支払方法」に進んで選択し、クレジットカードを挿入、画面を「確認」して「領収書」ではなく「レシート」を選び「袋不要」を選び・・・ようやく買ったことになって、カバーは自分でつけさせられる。実に大変である。
 <専門家>は「今後仕事を奪われるかも」といま心配するが、<ただのバイト店員>は既に光る箱に仕事を奪われ、「人が支配される時代が来るのではないか」という<専門的な>議論が掲載された本を手にした<ただの客>は、既に、箱型装置にあれこれ指示され、いいなりに行動しなければそれを買えない。
 と書いていて、直接は関係ない話だが、思い出したことがある。世話をして育てる電子玩具「たまごっち」は今もあるようだが、以前、親しい女性のお母さんにそれをプレゼントしたところ、亡くした娘(女性の姉妹)の名前を付けて、可愛がってくれていた。ところが、たまたま入院だったか旅行だったかで家をあけている間に電池が切れたか、「さようなら、〇〇(名前)は遠くに行きます」という言葉を残して画面が消えてしまったらしい。亡くした娘の名でそういわれ、号泣してしまったという。申し訳ないことをした。それからしばらくして、話しかけると少し遅れて同じことばを返す「ぬいぐるみ」が流行した。今度は、ただ自分の言ったことばをオウム返しに繰り返すだけなので、前のようなことは起こらず、しばらく楽しんでいたと聞いた。
 「ヒト」型からはるかに程遠いただの小さい卵形が、泣くほどまでに「人の相手」となる。「生成」とは全く無縁な、単なる自分のことばの繰り返しが、一応「人との会話」となる。オウム返しは「会話」ではないというなら、SNSで、「起きてる?」「る」「いい天気だね」「ね」などという会話をしている中高生などは。ぬいぐるみ以下ということになってしまう。
 もちろん<専門家>は、チューリングテストとか中国語の部屋とか苦労しているし、SFでは夢を見るかどうかが問題になったりする。それはそれで大いにやっていただけばいいのであるが、ただの<素人>には、もともと境目はあいまいであるし、それでどうということもない。(続く)